アメリカの黒人解放運動における非暴力の位置:スローズナヤ・クラサタだより(6)

アメリカの黒人解放運動における非暴力の位置

 非暴力闘争について思索を深めるために、今回はアメリカの黒人解放運動において非暴力がどのような位置を占めていたのかについて考えてみたい。以下では、中島和子著『黒人の政治参加と第三世紀アメリカの出発(新版)』(みすず書房、2011年)から学んだこと(全体の一部にすぎないが)をまとめる形で記述をすすめる。同書は、1989年に中央大学出版部から出版された同タイトル書の新版である。中島が1958年から3年間のアメリカ留学中に、南部の黒人社会を調査、同地域の黒人解放運動の渦中に入り込み、リーダーのロバート・ウィリアムズ等と直接かかわり、FBIの捜査の対象となるなど、かなり危険な状況にも置かれながら研究をすすめまとめあげた成果である。冷静な研究者の目と黒人解放を支援したいとする強い情熱がともにみられる感動的書物である。FBI捜査員への対応の場面など、クラサタ(私)はドキドキしてしまい、20代でよくもあのような応じ方ができたものだと感心する。中島は帰国後の1963年には、冤罪に問われ1961年からキューバに亡命中だったウィリアムズの計らいで、キューバ革命記念祭に招待され約2か月間キューバを視察している。さらに1969年にキューバ・中国での亡命生活を打ち切り、米国に帰国したウィリアムズが、無実を明かすために法廷闘争を展開した際には、公正な裁判を求めて、日本で1万余名もの署名を集めアメリカの関係者に送るなどの活動にも精力的に取り組んだ(ウィリアムズは、76年には告訴取り下げ勝訴となり、77年には来日、96年に71歳で永眠)。なおここでのテーマからははずれるが、中島は1999年以後研究テーマをがらりと変え、六甲山周辺の「磐座」の研究と保護活動に力を入れているという。この大胆な変わり方にもクラサタは驚き目をまんまるにしている。

 さて本題に入るが、アメリカにおいて非暴力抵抗は17世紀の植民地時代にクエーカー教徒によって採用され、ジョン・ウールマン、ヘンリー・D・ソロー、近現代ではA.J.マストなどに引き継がれてきた。トルストイやガンディーがソローの思想から大きな影響を受けたことはよく知られている。しかし1960年代に至るまでのアメリカでは、非暴力は少数派のものであり続けていた。それは不正には暴力で立ち向かってでも正義を求める「開拓者精神」がアメリカ社会に浸透していたためでもあった。しかも合衆国憲法修正第2条や多くの州憲法は、市民による武装の権利を保障してきた。この結果、不正に反撃せず、相手の暴力を甘受するという非暴力は、臆病者が採る方法だとされてきたのである。

 しかし1950年代半ばから1964年の公民権法制定にいたる黒人解放運動において非暴力はきわめて大きなうねりを作り上げることとなった。何故黒人の間に非暴力運動が広がったのだろうか。まずそもそも南部の黒人社会が非武装化地帯であったことに注意を払っておきたい。そのうえ白人たちは、ガンディーによって採られた非暴力行動は、インドのような「後進」国において有効な手段であるから、「後進」人種の黒人にもふさわしい方法であるに違いないとの偏見を持っていた。黒人が白人と対等になろうとして、白人に反撃したり、武装防衛の思想を持つことは許さなかったが、黒人が非暴力方式を採用することには比較的寛容であり同情的ですらあった。このことが黒人の間に非暴力への支持を増やしていく契機となったのである。

 この黒人解放運動において、非暴力はキリスト教と結びつき、牧師が闘争の主導権を握ることとなった。それはなぜだったのだろうか。先ず奴隷所有者たちは、黒人の効率良い支配のためにキリスト教を活用しようと考えた。その際、クエーカーを例外として、ほとんどのキリスト者たちは奴隷制を肯定し、奴隷たちを日曜ごとに礼拝のため教会に集め、神が彼らを奴隷にしたと信じさせ、主人に逆らうならば神に厳しく罰せられると説教した。来世には解放されるとの期待を持たせ、支配者に対して従順かつ無抵抗であることを推奨したのである。

 日曜礼拝で白人の説教を聞くのは強制だったが、黒人たちは嬉々として礼拝に集まった。説教などはほとんど聞かずに、同じ農園に働く親子兄弟、友人と公然と顔を合わせることが出来るのを喜んだのである。さらに日曜礼拝は鬱積した感情を発散させる唯一の場でもあった。教えられた讃美歌を歌う際にも存分に感情を発露させることができた。このような奴隷たちの態度に接し、白人説教師たちは、しだいに奴隷への説教を負担に感じるようになっていった。このため奴隷所有者は、奴隷のなかから人を選び、彼らにバイブルを読み説教することを教え、厳格な監視と指導のもとに代理を務めさせることとした。黒人の説教師は、多くの場合、奴隷と主人との間に生まれた混血児のなかから選ばれた。キリスト教人道主義、人間としての平等の強調は、奴隷所有者が奴隷に知られることを恐れた教えであり、細心の注意をはらって奴隷専用の説教集が作られ、黒人説教師の言動には厳重な監視の目が光っていた。しかし代理となった黒人説教師は、自ずと仲間とともに奴隷の立場を悲しみ、絶望を表現することとなり、白人説教師の場合よりもはるかに、奴隷たちの関心をひき寄せることとなった。

 とは言え黒人にとっての礼拝の魅力は、依然としてキリスト教でも説教でもなく、それが奴隷にとって唯一の集合の自由と自己表現の機会を保障した場であった点にあった。奴隷所有者たちは、奴隷たちが熱狂的な歌や踊りに陶酔している様子を見て安心するが、黒人霊歌には、南部からカナダにむかう地下鉄道が暗示されていた場合もあったという。そこでうたわれる「天国」とはカナダのことで、地下鉄道へ逃げ込むとカナダへ行けるかもしれないという望みがうたわれていた。奴隷所有者たちは、そのことに気づかぬまま無邪気に聞き入っていた。キリスト教を隠れ蓑として黒人たちは、表面的には白人に従うふりをして、抵抗するすべを獲得していったのである。

 しかし奴隷所有者は、キリスト教が奴隷の間に浸透するにつれ、みずから蒔いたジレンマの種に気づくようになる。奴隷制安泰のために設けた日曜礼拝が、やがて反乱のための礼拝へと転化する危険を察知した奴隷所有者たちは、黒人の説教や宗教的集会を禁止しようとしたが、黒人説教師と奴隷のための日曜礼拝はすでに南部プランテーションに深く根をはり、法などで一掃することはできなかった。多くの奴隷は、屈服を装いながらも、精神的には屈服を乗り越える境地を見出そうとして神に接近し、そこに黒人キリスト教の世界を誕生させていった。こうして白人による黒人支配のために導入されたキリスト教は、次第に黒人の精神的武器となり、日曜集会は、奴隷解放後には活動拠点としての黒人教会を生み、教会が後の非暴力闘争の苗床となったのである。

 ところがキング牧師をリーダーとして非暴力闘争が展開されたとき、基本的にはキングの考えに賛成しつつも、置かれた環境の違いから武装自衛の方法をとった事例もあった。中島が深くかかわることとなったロバート・ウィリアムズの場合であった。彼が中心となって活動していたノース・カロライナ州モンロー市は、非暴力闘争を展開する条件を欠いていた。そのため、ウィリアムズがとったのは武装防衛方式であった。

 中島によれば、アメリカにおける黒人の非暴力抵抗が成功するには、次の条件が必要であった。第1は第三者的勢力(世論)の存在、第2はマス・メディアの存在、第3は強力なリーダーシップを持ち運動のシンボルとなる中心人物(カリスマ的リーダーであることが望ましい)の存在、第4に、よく訓練された規律ある直接行動隊の存在である。モンロー市では、1と2の条件が欠けており、事件の真相を外部にもらすことが禁じられていた。ウィリアムズはキングの非暴力方式に反対ではなかったが、それが通用しない場合もあることを指摘し、非暴力の鉄則化に反対していた。暴力に対して無条件に無抵抗であってはならない、自己防衛のための威嚇の武装は、白人たちに暴力、物理的破壊力を行使させないための抑止として不可欠の策であると説いていた。実際、彼の村では、黒人が無防備と知るや白人は無制限に暴力行為を働いたが、いったん黒人に防備のあることを知ると、白人には生命の危険を冒してまで暴力を働く勇気はなく、武装防衛は白人の暴力行為を未然に防ぐことに効果的であった。しかもウィリアムズの採った方法は、不正を排除するためには暴力をもいとわないという「開拓者精神」に合致し、人権尊重を根本道徳とする近代的思想でもあった。だが白人はウィリアムズに対して苛酷であり、ウィリアムズは1961年8月にはキューバへの亡命を余儀なくされてしまった。

 キング牧師は、黒人が自衛のために武力を用いることに全く否定的だったわけではない(場合によっては勝利をものにする可能性もあると述べていた)が、社会的に組織化された大衆の行進をより有効だとみていた。実際、1950年代後半から60年代にかけての南部の政治風土のなかでは、非暴力直接行動という「武器」に身をゆだねて活動した運動のみが、成果をあげることが出来たのであった。

 当時のアメリカでは、黒人が非暴力を掲げて進む限り、そこにはある程度の寛容が約束されていたが(そもそも白人たちは黒人の非暴力を「弱者」によるものとして容認)、この旗印を掲げないならば、暴力主義者、共産主義者、ブラック・ナショナリスト等のレッテルが貼られ、リンチ、暗殺、社会的抹殺の対象となり、ウィリアムズの例が示すように、運動の芽はたちどころに摘み取られてしまった。ウィリアムズの失敗以後、非暴力運動の指導者たちは、より慎重に運動を展開することを余儀なくされた。それゆえ非暴力主義は当時のアメリカにおける八方塞がりの苦境を反映したものであり、その状況を突き破るもっとも聡明な、ある意味では実現可能な唯一の突破口として探りあてられたものでもあったのである。

 もちろん非暴力闘争を成功させるにあたって、キング牧師の思想的深化はきわめて重要だった。特に彼が被抑圧者のみならず抑圧者の精神的解放をもめざし、黒人を白人に対する解放者の位置にすえる思想に到達したことの意味は大きい。それは絶望とあきらめのなかで、とかく自己否定的で自滅的になりがちな黒人に、自信と威厳さらには使命感を持たせることによって運動を活性化させたのである。しかし同時にロバート・ウィリアムズの例が示すように、非暴力の鉄則化には適さない場合もあることへの理解と柔軟な対応も必要であろう。

 以上を学び、クラサタは次のように考えた。非暴力闘争を成功に導くために、リーダーが持つべき思想やリーダーシップのあり方について考察することは今後とも重要である。しかしそれだけに議論を集中させるのでなく、非暴力がどのような条件下で最もよく効力を発揮しうるのか、またそのような環境をどうつくりあげて行くことができるかの考察にも力を注いでいかなければならないのではないか。