現代における手仕事の積極的意義:スローズナヤ・クラサタだより(9)

現代における手仕事の積極的意義

 機械による生産が圧倒的に主流となっているいま、手仕事は消えゆくのみなのだろうか。そう受けとめる人が多い一方、手仕事に惹かれる人もまた増えている。機械化があまりに進行し、殺伐としたゆとりのない社会のなかで、人間的なぬくもりを求めている人は多い。しかし手仕事は今後も経済的にうまくやっていけるのだろうか。あるいは余力ある者が趣味的に行うだけのものになってしまうのか。手仕事に、社会変革にもつながる積極的意味をいま見出すことは可能なのだろうか。今回クラサタ(私)はいくつかの文献を参考に、これらの問題について考えてみたい。

  先ず今村 仁司は、手仕事の意義およびその復権の必要性について次のように述べている(以下とも「手仕事の歴史的意味『Dresstudy : 服飾研究』〈京都服飾文化研究財団〉50巻2006年8月、参照)。 手仕事は本来、人に生きる意味を与え幸福を約束するはずのものだった。ところが近代の資本主義経済は、機械による大工場制を導入し、職人労働を締め出した。その結果、効率と収益率が優先され、人生は賃金と利益に奉仕するものになってしまった。そのなかで手仕事は個人的趣味に封じ込められ、あるいは高級職人=芸術家の儲け仕事となった。だが趣味としての手仕事は、退屈な労働によってたまる欲求不満を解消するための手段に格下げされている。一方高級職人は少数の特権者であり、平均的人間にはまねのできない貨幣的収入を持つ。利益中心、効率中心の市場万能主義を変更ないしは抑制しない限り、計算合理主義を求めず真摯に手仕事に打ち込む人生を送ることはできない。ウィリアム・モリスが『ユートピア便り』で描いたような手仕事で動く社会こそ、人間にとってもっとも幸福なはずであり、そこでは近代的浪費体質も軍事圧力も極小になると考えられる。手仕事社会はユートピアの永遠のモチーフとして、これからも何度も登場するに違いない。では手仕事社会に向かうにはどうすれば良いのか。今村は、各人のレヴェルでできることとして、手仕事を社会体制の枢軸価値にするよう、仕事のエートス(仕事する態度とモラル)を変えることを勧めている。今村のこの論文はかなり前に書かれたものだが、いまでも手仕事の意義をこうとらえその復権を願っている人は多いかも知れない。

  一方、『失われた手仕事の思想』草思社、2001年、中公文庫2008年)の著者、塩野米松は手仕事に期待する社会的基盤はすでに失われてしまったと嘆きつつ、次のように述べている。日本は工業立国を目指したために、農村から都会への人口移動が生まれ、大量生産・大量消費が、手間のかかる手作り製品を駆逐していった。日本の手仕事の時代は完全に終わり、そこで培われた思想も喪失してしまった。人は歓びのためではなく、賃金を稼ぐための労働力となり、かつてのように、職業がそのまま人生であった時代は終わってしまった。手仕事中心の社会では、自然を使い尽くさず使い続ける知恵を重視していたが、利益追求を目的とした企業は、資源の使い捨てを選ぶこととなった。使い尽くさぬ思想も効率最優先のもとで失われてしまったのである。

  このように事態を嘆く発想に対し、川田順三は、むしろ手仕事が機械化に移行することのメリットに目を向け、洗練された性能をもつ機械のほうが、「生はんかな」手仕事よりはるかに良質の物を作ることが出来ると説いている(以下とも「手仕事幻想」『国際交流』1999年4月21巻3号、参照)。また機械化は伝統的手仕事の場で特定の重労働に従事せざるを得なかった女性などを解放し、楽しい時間を過ごすことができるようにしたとも述べている。さらに次のことにも目を向けるべきだとする。かつて植民地時代に抵抗運動の手段として象徴的な意味を持ったガンディーの手織布も、独立後は、国内でインド人起業家によって大量に生産された工業製品との自由競争にさらされ、安くて見た目も美しい工業製品との競争に負けてしまった。一方趣味の手織から生まれた高級品は、高価な贅沢品として、高度産業化社会で手作り嗜好の強い欧米や日本等への輸出向けとなるにいたった。小規模な素人経営の生産は、経営的にも合理化された大規模工場の生産にはとうてい敵わない。高級手織は政府によって文化遺産として保護の対象となってしまった。川田が指摘するこれらの問題点については、どう考えればよいだろうか。

 先ず、機械製品の方がはるかに良質のモノを作ることが出来るという指摘に対しては、機械で作られた製品はツルンとして人間味が感じられないと捉えている人も多いことに注意を払っておきたい。例えば坂井素思は、手仕事が存続するのは、そこにみられる「しくじり」や「ずれ」から生まれる効果的デザインと関係があるのではないかと指摘している(『椅子クラフトはなぜ生き残るのか』左右社、2020年、469-470頁)。リチャード・セネットも、機械への投資によってより品質のよい製品が作られるとともにコストも安くなったが、完璧でない手作りのものには美点がある、不規則性と独自性という美点であると述べている(『クラフツマン 作ることは考えることである』筑摩書房、2016年、158,187頁)

 だがいまや機械は、これまでもっぱら手仕事と結びつけられてきた不規則性や独自性・偶然性すらコピーするようになっているのではないか。このことは人間にはそもそも過度な規則性には耐えられないという傾向があることを示している。セネットは、このことについても的確に認識し、次のように述べている。産業時代に機械によって大量の単調な煉瓦が作られるようになると、伝統的クラフツマンはそれを嫌って差異化された特色ある煉瓦を造り出した。だがそれに対して機械は、新しい煉瓦を古くみせたり、伝統的煉瓦を模倣したりするようになった。この結果、本物かコピーかを見抜くことは非常に難しくなった(同書、249-251頁)

 しかしこれらを踏まえたうえでセネットは、手仕事が機械と競争すべきではないと述べる。競争的な強迫観念にとらわれて、自分たちがやっていることの価値や目的をみうしなわないようにしなければならない。機械を叩き壊し、機械の優越性を否定したとしても、生産的な結果はもたらされないとも説いている(同書、426頁)。たとえ不規則性や独自性を機械によって模倣されたとしても、手仕事は機械を排斥することなく、ペースを守りながら、手仕事ならではの制作を重視し続けるべきだということなのだろう。

 次に女性等下働きを強いられている者が機械化によって解放されるとする点についてはクラサタも、例えば小鹿田焼などにおいて女性に課されている役割が前から気になっていた。小鹿田焼の制作現場では、土作りは女性、轆轤を回すのは男性に限るなど、昔ながらの伝統的家内労働が行われているのだという。

 ここから手仕事は必ず充実した人生につながるという見方には疑問が生じる。たとえ完成品を目にすることが出来たにせよ、下積み的作業を半ば強制的に担わされている者には、充実感が得られない可能性がある。この弊害は、これまで伝統擁護の名のもとに、覆い隠されてきたのではないか。逆に手仕事でなく機械製品でも、初期プランに従事する人達は、かなりの充実感を得ることができるかも知れない。こう考えると問題なのは、機械であれ手仕事であれ、単調で苦痛に感じられる作業を強いられている人たちが抱える問題だということに気づかされる。

 次に、植民地時代には象徴的役割を果たした手仕事も、独立後は国内で生産された工業製品との自由競争に敗れてしまった、小規模生産は、大規模で合理的な工場生産に所詮は敵わないのではないかとの指摘についてはどう考えたらよいのだろうか。ガンディーが、機械と対決姿勢をもって手仕事に期待をかけていたのは、帝国主義時代において機械が植民地支配の先兵として機能しており、植民地支配に抵抗する人々が、経済的にも貧しいという特定の状況下においてであった。ガンディーは手仕事によって人々の自立を促し、かつ貧困状態におかれた人々に現金収入をもたらそうとした。したがってそれは、単なる手仕事対機械の問題というよりは、機械からもたらされる弊害が大きい時代状況のなかで、数少ない抵抗手段として手仕事に期待し、それを軸に闘争を展開したものであった。しかし機械を敵視して手仕事を闘争の中核にすえるこの方法は、植民地時代が終焉し、かつての被支配者が経済的に豊かになり、生活に機械を取り入れつつある現在においては、もはや妥当性を失っていると言えるのではないか。ただしクラサタは、ここで闘争方法を問題にしているのであって、ガンディー思想の現代的意義を全否定しようとしているわけではない。これについては改めて検討したい。

 一方、川田は否定的にみていたが、小規模生産については今後とも期待できそうである。坂井素思は、小規模生産について、消費者の需要の変化に応じ融通ある対応をすることができるので、その点で大規模生産よりも有利であると指摘している。しかも小規模生産体制は、労働者が「歯車」のようになって満足感が得られにくい大規模生産とは異なり、芸術活動のように自己完結的で自己目的的性格を持つというメリットもあると説いている(坂井、前掲書、729,741,744頁)

 ところで川田は、上記のように機械化のメリットを指摘しながら、西洋近代モデルの技術文化普及がもたらした弊害にも目を向けねばならないと指摘している。その弊害とは、資源枯渇や環境破壊などの地球規模の問題である。そしてこの解決のためには、労働を効率や経済性のみで測ることのない、働くことの新たな倫理的意味づけを見出す必要があるとしている(川田、前掲論文)。この点で川田は今村の考えに近いが、ここで川田が期待しているのはもちろん手仕事の復権ではない。

 いまや機械生産も、地球環境破壊・天然資源枯渇の回避という人類史的課題を考慮し、将来世代を視野に入れ、生産に抑制をかけていかねばならない段階に達しているということであろう。この状況下に機械を排斥し、手仕事の復権をはかることによって理想社会を目指すという図式はもはや時代遅れである。しかし手仕事がこれまで長年にわたる経験のなかで培ってきた知恵を活かすことは可能であろう。

 ジョン・シーモアは、人々が良質で心が満ち足りた生活を送ることができるよう、質がよく本当に必要とされるものを生産することが重要だと述べている(以下とも『手仕事 イギリス流クラフト全科』平凡社、1998年、参照)。そして正直な仕事を楽しみ誇りとしながら、「正当な報酬」を受けるが、それ以上は受けないという姿勢を保ち続けることも必要だと説いている。クラサタは正当な報酬ということをこのところほとんど考えずに過ごしてきたが、それを忘れ、競争に駆られあるいは商業ペースにのって不当な利益を追求するようになると、いつの間にか資源の枯渇を加速させ、人間についても手段として扱ってしまいがちになるのだろう。

 外来の材料に依存した大規模生産の場合には、資源に限界があるということが実感されにくいため、持続可能な資源の活用という考慮が忘れられがちとなる。この点、地元の材料を使い尽くさぬよう丁寧に扱ってきた手仕事の知恵は有用であるに違いない。

 たとえゆっくりであれ、あくまでも人間が主体となって小規模生産に従事し続けることは、社会を理想の方向(そこでは多くの人が充実した生き方をなし得る)に向かわせる力になると思われる。なおその際には、気晴らしとしての趣味や高級志向の手仕事についても否定する必要はないのではないか。さまざまな芸術の分野(美術、音楽等々)で、真に素晴らしい芸術が良質なものとして高い評価を得ていると同時に、趣味としての領域も認められているように、手仕事のあり方についても狭く限定する必要はない。多くの人が生活のために生き甲斐を感じられない仕事に従事せざるを得ず、しかもその仕事もAIに奪われるかも知れないという恐怖を感じながら、張りの得られない人生を過ごしているとするならば、たとえ趣味だとしても、それは人が充実感を得るために必要なことである。そしてそこから優れたモノが生まれる可能性もある。また高級で高価な手仕事も、必要な手続きを正しく経たモノであるならば、芸術品としての評価を得ることも出来るかもしれない。もちろんそこでも正当な報酬以上は求めないという倫理は重要である。

 今後、手仕事が社会の中枢に復帰することは想像できない。しかし手仕事従事者は、過度な自己執着に陥ることなく、機械も適宜柔軟に使いこなし、不必要なモノは作らず正当な報酬以上は受け取らないという倫理を堅持・発信し続けることによって、現代社会が抱える課題解決の方向にむけて積極的役割を担っていくことができるのではないか。