山本芳久『世界は善に満ちている』新潮選書、2021年を読んで:スローズナヤ・クラサタだより(7)

山本芳久『世界は善に満ちているートマス・アクィナス哲学講義』新潮選書、2021年を読んで

  いま世界には暴力が蔓延している。いたる所でさまざまな差別、格差をめぐる対立が先鋭化し、抑圧的体制のなかで民主化勢力への弾圧も強化されている。環境問題も深刻さを増しており、コロナ禍が人々の不安に拍車をかけている。どうしようもないほどの悪と悲惨さに満ちた世界を目にしてうんざりする日々だが、そのような状況下に、真摯な学究が「世界は善に満ちている」と言い切っていることに驚き、その主張の学問的根拠を知りたく思って、この本を手に取った。

  著者の山本芳久(1973年生れ)は、哲学、倫理学キリスト教学を専門とし、現在は東京大学で教鞭をとっている。20歳のときにトマス・アクィナスの『神学大全』を読んで考えが大きく揺さぶられ、トマス思想の「刻印」を受けて哲学研究者を志した。トマス・アクィナスとは13世紀にイタリアで生まれ、「哲学と神学の統合」あるいは「信仰と理性の統合」という偉業を成し遂げた中世最大の神学者・哲学者である。山本の主な著書には『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)などがある。

  山本はいまでもトマス哲学から生きる糧と張り合いを得ながら研究を進めており、トマスのテクストは、キリスト教信仰の有無にかかわらず、現代の私たちが生きていくうえでも多くの手がかりを与えてくれると言う。トマスは、全知全能の善なる神によって万物が創造され、この「世界は善に満ちている」という世界観を持っていた。彼の思想の根本をなしていたのは、「肯定の哲学」であった。著者はコロナ禍のなかで悲観的なものの見方をする人が増えているいまこそ、トマスの「肯定」のメッセージが必要とされているのではないかと思って、本書を執筆した。哲学書に不慣れな人でも読み通せるよう、「学生」の質問に「哲学者」が答えるという叙述のスタイルをとって論が進められている。

  私(クラサタ)もぜひ人生を肯定的にとらえ、希望をもって前進したいと考えているので、現代社会の諸問題解決のために参考となるどのような知見が得られるかと楽しみにしながら本書を読み進めた。本書の端々には、トマス哲学の根源に触れることによって、読者の人生を肯定的な方向に向かわせたいとする著者の強い願いが確かに表現されていた。

  クラサタが本書を読んで新たに得た知見としては次のものがあった。

先ず、感情と理性はしばしば対立するものととらえられているが、感情は単なる非合理な気まぐれのようなものではない。トマス哲学においては、感情を理性的に分析するという方法によって、感情と理性がひとつにつながっている。

  あらゆる感情の根源にあるのが愛である。それは特権的な感情であり、他の感情によって置き換えることはできない。愛は、能動的にではなく、受動的に生まれるが、能動的な行為の原動力になるものである。愛は憎しみよりも圧倒的に優位にあり、より強力である。愛がなければ憎しみは生まれない(=愛が憎しみの前提条件になっている)ので、憎しみの根底には愛があると言い得る。

  何かを気に入るということは、この世界のなかに自分の心と響きあうものがあるということを意味しており重要である。気に入るという感情を抱けること自体が、ある種の喜びを与えてくれる。実際にまだ接していなくても、そのようなものがあるというだけで、心が生き生きとしてくる。何かを気に入るとは、「欲求される可能性があるもの」を気に入るということで、欲求の運動が成立するためには、欲求されうるものと欲求する主体との共同作業が必要である。

  愛するとはある人のために善を望むことであり、誰かのことを深く愛すると、その人は単なる他人ではなく、もうひとりの自分になる。その結果もうひとりの自分に好感を与えるもの(音楽であれ美術であれ)が、自分自身にも好感を与えるものとして受けとめ直される。こうすると愛によって得られる喜びは、自分ひとりという狭い枠を超えて広がっていく。そのような広がりを持った愛と喜びの世界がトマスのテクストでは語られている。

  虚しさや手ごたえのなさを克服するためにはどうすればよいか。宗教を信じれば解決されるというものではない。虚しさを簡単に克服する方法はない。ひとつひとつの「刻印」を大切に育んでいくことが、虚しさに圧倒される状況を打開する手がかりになってくれるのではないか。刻印を育むとは、いいなと思うものから心を揺り動かされることで、受動的に生まれる愛されるものが自分の心のなかに住み始める、それによって自分が活性化させられ、新たな生命を与えられるのである。

  このように受動性は否定的なものではなく、むしろ善を確保するために役立つ肯定的なものである。そして善を獲得したり維持したりするために感情は重要な役割を果たしていると言うことができる。

  ところで感情を抱くということは、外界の事物から心を受動的に動かされることであり、心の安定がかき乱されることでもある。その結果人生を台無しにする極端な行動に走ることもしばしば起こりえる。しかしそのようなある種の危険をはらんだ対象との出会いによってこそ、私たちの心は活性化され、能動的に新たな行為に取り掛かるための原動力を与えられる。このように受動的感情を抱くことそのものが、私たちの精神をこの世界に対して深く広く開いていく行為であり、活動である。

  さまざまな欲求されうるものの刻印が心の中に存在している人は、自分を肯定しやすくなる。逆に心のなかにそういうものが全く存在しないと、心が空虚になって、自分を肯定するのが難しくなる。したがって自己肯定感を抱きたいのであれば、自己に拘るよりもむしろこの世界に満ちている様々な事物や人物の「欲求される可能性あるもの」に近づくことが近道であろう。

   以上、クラサタが本書から読み取った内容を紹介した。愛という感情が自分の心の中から能動的に生まれてくるというよりは、むしろ外界の魅力的なものに揺り動かされて受動的に生じるということは考えたことがなかったので、興味深い観点だと思った。また何かを気に入るかどうかは、生きていくうえでとても重要だということにも改めて気づかされた。確かにこの世で何も好きになれないというのは、人間の精神を危機に陥らせるに違いない。さらに困難な状況から逃げてばかりいる臆病な人は、たとえうまく逃げ続けることができたとしても、多くの善を失う、困難に立ち向かうことによってのみ獲得できる善を手に入れる機会を逃してしまうという指摘にも考えさせられるものがあった。

  しかし残念ながら、読後に、深く感動するとか、「刻印」されるということが全くない書物であった。

恵まれた環境に置かれながら、肯定的に人生を展開できないでいる人は、本書で説かれた内容に共感するのかも知れない。

  トマスの時代に現代の課題が視野に入っていないのは当然だが、著者の言う「発展的トマス主義」(現代の文脈のなかに蘇らせたトマス主義)が果たして現代の喫緊の課題に対応できるものとなるのだろうか。例えば暴力連鎖をどう断ち切ることが出来るか、差別撤廃、格差是正、環境問題の解決に向けてどのようなヴィジョンを示してくれるのだろうか。

  またそもそも信仰の有無に関係ない議論だと言いながら、9章以降では全知全能の神、多くの善きものを創造した神の存在を前提に、この世に満ちている善きものとのめぐり会いの可能性を信じていけば、人生を肯定的に生きていくことができると力説されており、強い違和感があった。