ガンディー思想の現代的意義:スローズナヤ・クラサタだより(10)

ガンディー思想の現代的意義

   今回は、《ガンディー思想にはどのような現代的意義があるのか》を探るため、石井一也著『身の丈の経済論―ガンディー思想とその系譜』(法政大学出版局、2014年)を取り上げる。

   本書は、ガンディーの経済思想を「身の丈の経済」(等身大の経済)と表現し、21世紀のグローバル社会に重要な示唆を与える発想であると説いている。イヴァン・イリイチが提唱した「コンヴィヴィアリティ」という概念を援用しながら叙述は進められている。ここでコンヴィヴィアリティとは、人々がそれぞれ自律的でありながら他者を尊重し、自発的な節制を働かせつつ相互に助けあう倫理を意味しており、それはガンディーが生涯にわたって追求した「真理」に通じるものだとされている。資源の枯渇・生態系の危機にさらされている地球環境、さらには将来世代を視野に入れて今後の社会構想を考えるとき、この観点はきわめて重要であると著者は説く。本書では、現在多くの人に希望を与えているインド人のアマルディア・センの見解とガンディー思想の違いについても明らかにしている。

 これまでガンディー思想は、マルクス主義者(ジャワーハルラール・ネルーを含む)からは進歩に逆行する思想として批判され、マルクス主義的ではない近代主義者(オールダス・ハクスリー、ジョージ・オーウェルラビンドラナート・タゴール等)からも、時代錯誤的との批判を受けてきた。その後、ポスト近代主義やポスト植民地主義の論者からは、将来の社会に必要な思想だと肯定的にみられるようになった。しかし著者によれば、ポスト近代主義者たちは、資本主義社会やグローバル経済には肯定的で、ガンディーによる近代文明批判や「身の丈の経済」という観点を十分に把握していない。

 ガンディーの経済思想の基本には、厳しい近代文明批判の精神がみられた。経済発展を善とする発想や暴力性を伴う近代社会を乗りこえようとしていたこと、これこそが彼の近代批判の核心であった。したがってガンディー思想のよりよい理解のためには、この核心をとらえた「もうひとつのポスト近代主義」が必要となる。その代表的な論者としては、リチャード・グレッグ、E. F. シューマッハー、ジェレミー・リフキン等をあげることができる。著者は、この観点に共鳴し、自らもそこに立って論を展開している。

 ガンディーが近代文明批判を本格的に論じはじめたのは、1907年刊の『ヒンドゥ・スワラージ』からであった。ガンディーは、近代文明の特徴を人間の精神性を軽視する物質主義にあるとみて次のように説いた。近代社会は文明の名のもとに機械を通じて際限なく物質主義を推進し、天然資源や市場をめぐる競争、国家間の支配・従属関係を生み、植民地の分割・搾取をもたらした。インドが貧困に陥ったのも機械のせいであり、マンチェスターがインドの手工業を破壊した。物質的進歩は人々を金で買うことのできる奢侈品の虜にしたが、これは真の進歩ではない。真の進歩(真の文明)は、必要物の拡大によってではなく、その慎重かつ自発的な削減によってこそもたらされるものである。

 このようにガンディーは西洋の工業国が国の内外で搾取や従属を生みだしていると強く認識していたため、インドが西洋型の発展モデルを採用して工業化することには断固反対であった。ガンディーが採用した路線は、利己心の追求を経済発展の原動力とみなすアダム・スミス以来の自由主義とも、大規模工業化を目指すマルクス主義とも異なるものであった。したがってネルーが推進した社会主義的工業化にも反対だった。

 ガンディーはスワラージ(政治的独立・自治)とスワデーシー(経済自立)の実現を目指していくが、その際に政治の基本的単位としたのは、インドに古くから伝わるパンチャーヤト(民主的な手続きで選出される村民からなる自治組織)によって運営される共同体的村落であった。ガンディーの村落論は、ネルーロマン・ロランタゴール、セン等によって国家主義的・懐古主義的思想として厳しく批判されることとなった。しかし著者によれば、ガンディーは権力の分散化を志向しており、それは排他的なナショナリスト的色彩を持つものではなかった。ガンディー思想におけるナショナリズムは、彼が「人はナショナリストとなることなくしてインターナショナリストとなることは不可能である」と述べているように、インターナショナリズムの前提としてのナショナリズムであった。

 ガンディーの経済思想を支えた二本柱はチャルカー運動と受託者制度理論であった。チャルカー運動はインド古来のチャルカー(手紡ぎ車)とカーディ―(手織綿布)を復活させ、糸紡ぎを含む織物作りの工程のすべてを手作業にすることによってインドの人々に労働のチャンスを広く提供し、貧者を救済しようとしたものであった。この運動の経済的評価は研究者たちの間で別れているが、これは地方の人々を結びつけ「インド民族」の概念を醸成するために役立ったとされている。この運動の関連施設はしばしば弾圧を受け、運動も後退を余儀なくされてしまった。しかし強力な商人資本の進出にもかかわらず、その支配下に組み込まれなかった在来の職工が多数いた事実に、この運動の一定の効果を認めることができると著者は述べる。またチャルカー運動によって得た富が少なかったにせよ、それをできるだけ多くの貧者に分配しようとしたガンディーの狙いは理解されるべきだとも説いている。

 なお機械製の綿糸・綿布が、チャルカー運動の行く手をしばしば阻んだが、ガンディーは、工場を破壊・没収するといった強制的手段を最後まで採ろうとはしなかった。ここにガンディー経済思想の非暴力的本質があらわれていると著者は述べている。

 ガンディーの経済思想を支えたもうひとつの柱は受託者制度理論であった。それは富者の財産を神から信託されたものとみなし、富者が貧者のために財産を自発的に再配分するよう求めるものであった。ガンディーは英国で法律を研究していた時期(1888~91年)に「信託」(trust)の概念に出会い、その後南アフリカ滞在中に、ラスキンの思想にも学びつつ、それを宗教的観点から深めていった。受託者制度理論を本格的に展開したのは、1915年にインドに帰国して以降のことであった。ガンディーはインド民族資本家を代表する企業家(アンバーラール・サーラーバーイー、ガンシャームダース・ビルラー、ジャムナーラール・バジャージ等)とめぐり会い、彼らとの友好関係を重視し、多くの資金援助を受けていた。ガンディーは、インド民族資本家の財力と経済手腕をみずからの活動に積極的に活用しようとしていた。資金は、チャルカー運動をはじめアーシュラムの運営費用等々のプログラム推進に使われた。このような資本家たちの存在が、ガンディーの受託者制度理論の展開を支えていたが、そこには必ずしも経済思想に共鳴したわけではなく、ガンディーの個人的資質に魅せられて支援を惜しまなかった者もいたという。

 この理論は、マルクス主義の側からは体制擁護論として批判され、資本主義を擁護する側からは体制に親和的なものとみなされていた。しかしガンディーは、資本主義システムを維持しようと意図したわけではなかった。それは当時影響力を増しつつあったマルクス主義思想を意識しながら、階級闘争を回避し、近代社会の矛盾を非暴力的な方法で是正しようとした独自の階級・分配理論であり、積極的な社会改革論とみなされるべきものであった。ガンディーは、地主から土地を没収するなどの方法は非暴力の精神に反するとして採らず、あくまでも非暴力の枠内で富の再配分を目指していた。

 このようにチャルカー運動においても受託者制度理論においても、非暴力は重視され続けていた。ガンディーは共産主義者の動機には共感し敬意も抱いていたが、その暴力的手法には断固反対であった。ガンディーの経済思想は、あくまでも非暴力と道徳性に基づくものでなければならなかった。

 ガンディーは、生涯を通じて「真理」(ガンディーは神と同一視)を追求し、それを宗教的に深めていったが、「真理」に到達する道は非暴力であり愛であるべきだとされていたのである。ガンディーはインドの宗教的伝統に見出した消極的性格の「アヒンサー」(不殺生)にキリスト教のカリタス(人類愛)や非暴力といった積極的要素を融合させ、独自の「真理」形成に至った。その際、ガンディーが受容したキリスト教は、聖書に書かれたイエスの言葉ならびに、異端とされたトルストイラスキンの思想であり、西洋帝国主義とともに各地に浸透しつつあった宣教師たちによる説教でなかったのは言うまでもない。なおガンディーの倫理観には禁欲が含まれるが、それは資本主義の発達を導いたマックス・ヴェーバーの説いた禁欲とは大きく異なり、近代社会の矛盾から脱け出すためのものであった。しかもそれは自発的なものだされていた。

 ガンディー死後のガンディー主義は、独立インドにおいてはサルヴォーダヤ(すべての人の幸福を意味)運動の形で継承されていった。それは近代の資本主義や社会主義とは異なる民主主義国家としてのコンヴィヴィアルな社会のあり方を模索し、民衆を中心とする社会を築こうとしたものであった。その後の世代には、ガンディー主義を環境保護運動として継承する者もいるという。

 インドの国外では、ドイツ生まれの英国人のシューマッハーが、ガンディー思想を経済学に持ち込みスモール・イズ・ビューティフルの思想を打ち出した。彼の「中間技術」(のちの適正技術論)はすべての人に手が届く小規模の手段と設備を意味しており、これはガンディーのチャルカー思想を源流とするものであった。米国人のリフキンも1980年にチャルカーを簡潔な適正技術の一例として高く評価した。そして近代の進歩主義や科学主義が、経済的権力の集中と環境破壊や資源の枯渇をもたらしたとし、簡素な技術こそが社会の持続可能性を保障するものだと説いた。彼は、ガンディー思想をニュートンの後に必要とされる思考様式であるとすら述べている。

 終章において著者は、富裕層の必要物を大幅に削減し、身の丈の経済へと大きく舵を切る以外に、近代の矛盾を打開する方法はないと説く。スミス以来の経済学は、ほとんどが成長経済(右肩上がりの経済)によって人々の生活を支えようとしてきた。それは成長経済を支えてきた利己心、市場メカニズム自由貿易、国家主導の開発など一連の近代的価値を肯定している。センの提起しているケイパビリティ、共感、コミットメント等の概念にはガンディー思想に通じるものもみられるが、彼は依然としてグローバルな物質的繁栄によって貧困を解決しようと考えており、基本的には近代の思考の枠内にとどまっている。センの見解を、ガンディー主義の枠組みのなかに位置づけ直す必要があるのではないか。こう述べつつ著者は、今後目指すべきは縮小経済であり、近代的諸価値に対抗する方向に向かう必要があると強調し、ガンディー思想の現代的意義はまさしくこのことを示唆している点に求められると説いて本書を結んでいる。

 以上、本書の内容を紹介してきた。クラサタ(私)には未消化の部分も多いのだが、それでもガンディーの思想ならびにそれを継承する思想が、地球環境危機の叫ばれる今日において、いかに重要なものであるかについては理解を深めることが出来た。それにしてもシューマッハーやリフキンの議論を導き出すほどの力をガンディー思想がもっていたことには驚きを禁じ得ない。シューマッハーやリフキンについて、ガンディー思想の継承者という角度から改めて学びたいと思った。

 なおクラサタは迂闊にもこれまでガンディーの活動が資金的にどのように支えられていたのかについては考えたことがなかった。ガンディーのような人物の活動には資金が不要であるかのように思い込んでいたのかも知れないが、当然そのはずはない。今回、受給者制度理論について知ることができ、その点が明らかになったのは収穫だった。

 また宗教に関して、クラサタが面白いと思ったのは、ガンディーのヒンズー教キリスト教の関係についてのとらえ方であった。ガンディーはキリスト教の聖書に説かれていることのすべてはすでにヒンドゥー教にみられるとみていた。したがって善良なヒンドゥ―教徒になることは、キリスト教徒になることをも意味すると考えていたのだという。

現代における手仕事の積極的意義:スローズナヤ・クラサタだより(9)

現代における手仕事の積極的意義

 機械による生産が圧倒的に主流となっているいま、手仕事は消えゆくのみなのだろうか。そう受けとめる人が多い一方、手仕事に惹かれる人もまた増えている。機械化があまりに進行し、殺伐としたゆとりのない社会のなかで、人間的なぬくもりを求めている人は多い。しかし手仕事は今後も経済的にうまくやっていけるのだろうか。あるいは余力ある者が趣味的に行うだけのものになってしまうのか。手仕事に、社会変革にもつながる積極的意味をいま見出すことは可能なのだろうか。今回クラサタ(私)はいくつかの文献を参考に、これらの問題について考えてみたい。

  先ず今村 仁司は、手仕事の意義およびその復権の必要性について次のように述べている(以下とも「手仕事の歴史的意味『Dresstudy : 服飾研究』〈京都服飾文化研究財団〉50巻2006年8月、参照)。 手仕事は本来、人に生きる意味を与え幸福を約束するはずのものだった。ところが近代の資本主義経済は、機械による大工場制を導入し、職人労働を締め出した。その結果、効率と収益率が優先され、人生は賃金と利益に奉仕するものになってしまった。そのなかで手仕事は個人的趣味に封じ込められ、あるいは高級職人=芸術家の儲け仕事となった。だが趣味としての手仕事は、退屈な労働によってたまる欲求不満を解消するための手段に格下げされている。一方高級職人は少数の特権者であり、平均的人間にはまねのできない貨幣的収入を持つ。利益中心、効率中心の市場万能主義を変更ないしは抑制しない限り、計算合理主義を求めず真摯に手仕事に打ち込む人生を送ることはできない。ウィリアム・モリスが『ユートピア便り』で描いたような手仕事で動く社会こそ、人間にとってもっとも幸福なはずであり、そこでは近代的浪費体質も軍事圧力も極小になると考えられる。手仕事社会はユートピアの永遠のモチーフとして、これからも何度も登場するに違いない。では手仕事社会に向かうにはどうすれば良いのか。今村は、各人のレヴェルでできることとして、手仕事を社会体制の枢軸価値にするよう、仕事のエートス(仕事する態度とモラル)を変えることを勧めている。今村のこの論文はかなり前に書かれたものだが、いまでも手仕事の意義をこうとらえその復権を願っている人は多いかも知れない。

  一方、『失われた手仕事の思想』草思社、2001年、中公文庫2008年)の著者、塩野米松は手仕事に期待する社会的基盤はすでに失われてしまったと嘆きつつ、次のように述べている。日本は工業立国を目指したために、農村から都会への人口移動が生まれ、大量生産・大量消費が、手間のかかる手作り製品を駆逐していった。日本の手仕事の時代は完全に終わり、そこで培われた思想も喪失してしまった。人は歓びのためではなく、賃金を稼ぐための労働力となり、かつてのように、職業がそのまま人生であった時代は終わってしまった。手仕事中心の社会では、自然を使い尽くさず使い続ける知恵を重視していたが、利益追求を目的とした企業は、資源の使い捨てを選ぶこととなった。使い尽くさぬ思想も効率最優先のもとで失われてしまったのである。

  このように事態を嘆く発想に対し、川田順三は、むしろ手仕事が機械化に移行することのメリットに目を向け、洗練された性能をもつ機械のほうが、「生はんかな」手仕事よりはるかに良質の物を作ることが出来ると説いている(以下とも「手仕事幻想」『国際交流』1999年4月21巻3号、参照)。また機械化は伝統的手仕事の場で特定の重労働に従事せざるを得なかった女性などを解放し、楽しい時間を過ごすことができるようにしたとも述べている。さらに次のことにも目を向けるべきだとする。かつて植民地時代に抵抗運動の手段として象徴的な意味を持ったガンディーの手織布も、独立後は、国内でインド人起業家によって大量に生産された工業製品との自由競争にさらされ、安くて見た目も美しい工業製品との競争に負けてしまった。一方趣味の手織から生まれた高級品は、高価な贅沢品として、高度産業化社会で手作り嗜好の強い欧米や日本等への輸出向けとなるにいたった。小規模な素人経営の生産は、経営的にも合理化された大規模工場の生産にはとうてい敵わない。高級手織は政府によって文化遺産として保護の対象となってしまった。川田が指摘するこれらの問題点については、どう考えればよいだろうか。

 先ず、機械製品の方がはるかに良質のモノを作ることが出来るという指摘に対しては、機械で作られた製品はツルンとして人間味が感じられないと捉えている人も多いことに注意を払っておきたい。例えば坂井素思は、手仕事が存続するのは、そこにみられる「しくじり」や「ずれ」から生まれる効果的デザインと関係があるのではないかと指摘している(『椅子クラフトはなぜ生き残るのか』左右社、2020年、469-470頁)。リチャード・セネットも、機械への投資によってより品質のよい製品が作られるとともにコストも安くなったが、完璧でない手作りのものには美点がある、不規則性と独自性という美点であると述べている(『クラフツマン 作ることは考えることである』筑摩書房、2016年、158,187頁)

 だがいまや機械は、これまでもっぱら手仕事と結びつけられてきた不規則性や独自性・偶然性すらコピーするようになっているのではないか。このことは人間にはそもそも過度な規則性には耐えられないという傾向があることを示している。セネットは、このことについても的確に認識し、次のように述べている。産業時代に機械によって大量の単調な煉瓦が作られるようになると、伝統的クラフツマンはそれを嫌って差異化された特色ある煉瓦を造り出した。だがそれに対して機械は、新しい煉瓦を古くみせたり、伝統的煉瓦を模倣したりするようになった。この結果、本物かコピーかを見抜くことは非常に難しくなった(同書、249-251頁)

 しかしこれらを踏まえたうえでセネットは、手仕事が機械と競争すべきではないと述べる。競争的な強迫観念にとらわれて、自分たちがやっていることの価値や目的をみうしなわないようにしなければならない。機械を叩き壊し、機械の優越性を否定したとしても、生産的な結果はもたらされないとも説いている(同書、426頁)。たとえ不規則性や独自性を機械によって模倣されたとしても、手仕事は機械を排斥することなく、ペースを守りながら、手仕事ならではの制作を重視し続けるべきだということなのだろう。

 次に女性等下働きを強いられている者が機械化によって解放されるとする点についてはクラサタも、例えば小鹿田焼などにおいて女性に課されている役割が前から気になっていた。小鹿田焼の制作現場では、土作りは女性、轆轤を回すのは男性に限るなど、昔ながらの伝統的家内労働が行われているのだという。

 ここから手仕事は必ず充実した人生につながるという見方には疑問が生じる。たとえ完成品を目にすることが出来たにせよ、下積み的作業を半ば強制的に担わされている者には、充実感が得られない可能性がある。この弊害は、これまで伝統擁護の名のもとに、覆い隠されてきたのではないか。逆に手仕事でなく機械製品でも、初期プランに従事する人達は、かなりの充実感を得ることができるかも知れない。こう考えると問題なのは、機械であれ手仕事であれ、単調で苦痛に感じられる作業を強いられている人たちが抱える問題だということに気づかされる。

 次に、植民地時代には象徴的役割を果たした手仕事も、独立後は国内で生産された工業製品との自由競争に敗れてしまった、小規模生産は、大規模で合理的な工場生産に所詮は敵わないのではないかとの指摘についてはどう考えたらよいのだろうか。ガンディーが、機械と対決姿勢をもって手仕事に期待をかけていたのは、帝国主義時代において機械が植民地支配の先兵として機能しており、植民地支配に抵抗する人々が、経済的にも貧しいという特定の状況下においてであった。ガンディーは手仕事によって人々の自立を促し、かつ貧困状態におかれた人々に現金収入をもたらそうとした。したがってそれは、単なる手仕事対機械の問題というよりは、機械からもたらされる弊害が大きい時代状況のなかで、数少ない抵抗手段として手仕事に期待し、それを軸に闘争を展開したものであった。しかし機械を敵視して手仕事を闘争の中核にすえるこの方法は、植民地時代が終焉し、かつての被支配者が経済的に豊かになり、生活に機械を取り入れつつある現在においては、もはや妥当性を失っていると言えるのではないか。ただしクラサタは、ここで闘争方法を問題にしているのであって、ガンディー思想の現代的意義を全否定しようとしているわけではない。これについては改めて検討したい。

 一方、川田は否定的にみていたが、小規模生産については今後とも期待できそうである。坂井素思は、小規模生産について、消費者の需要の変化に応じ融通ある対応をすることができるので、その点で大規模生産よりも有利であると指摘している。しかも小規模生産体制は、労働者が「歯車」のようになって満足感が得られにくい大規模生産とは異なり、芸術活動のように自己完結的で自己目的的性格を持つというメリットもあると説いている(坂井、前掲書、729,741,744頁)

 ところで川田は、上記のように機械化のメリットを指摘しながら、西洋近代モデルの技術文化普及がもたらした弊害にも目を向けねばならないと指摘している。その弊害とは、資源枯渇や環境破壊などの地球規模の問題である。そしてこの解決のためには、労働を効率や経済性のみで測ることのない、働くことの新たな倫理的意味づけを見出す必要があるとしている(川田、前掲論文)。この点で川田は今村の考えに近いが、ここで川田が期待しているのはもちろん手仕事の復権ではない。

 いまや機械生産も、地球環境破壊・天然資源枯渇の回避という人類史的課題を考慮し、将来世代を視野に入れ、生産に抑制をかけていかねばならない段階に達しているということであろう。この状況下に機械を排斥し、手仕事の復権をはかることによって理想社会を目指すという図式はもはや時代遅れである。しかし手仕事がこれまで長年にわたる経験のなかで培ってきた知恵を活かすことは可能であろう。

 ジョン・シーモアは、人々が良質で心が満ち足りた生活を送ることができるよう、質がよく本当に必要とされるものを生産することが重要だと述べている(以下とも『手仕事 イギリス流クラフト全科』平凡社、1998年、参照)。そして正直な仕事を楽しみ誇りとしながら、「正当な報酬」を受けるが、それ以上は受けないという姿勢を保ち続けることも必要だと説いている。クラサタは正当な報酬ということをこのところほとんど考えずに過ごしてきたが、それを忘れ、競争に駆られあるいは商業ペースにのって不当な利益を追求するようになると、いつの間にか資源の枯渇を加速させ、人間についても手段として扱ってしまいがちになるのだろう。

 外来の材料に依存した大規模生産の場合には、資源に限界があるということが実感されにくいため、持続可能な資源の活用という考慮が忘れられがちとなる。この点、地元の材料を使い尽くさぬよう丁寧に扱ってきた手仕事の知恵は有用であるに違いない。

 たとえゆっくりであれ、あくまでも人間が主体となって小規模生産に従事し続けることは、社会を理想の方向(そこでは多くの人が充実した生き方をなし得る)に向かわせる力になると思われる。なおその際には、気晴らしとしての趣味や高級志向の手仕事についても否定する必要はないのではないか。さまざまな芸術の分野(美術、音楽等々)で、真に素晴らしい芸術が良質なものとして高い評価を得ていると同時に、趣味としての領域も認められているように、手仕事のあり方についても狭く限定する必要はない。多くの人が生活のために生き甲斐を感じられない仕事に従事せざるを得ず、しかもその仕事もAIに奪われるかも知れないという恐怖を感じながら、張りの得られない人生を過ごしているとするならば、たとえ趣味だとしても、それは人が充実感を得るために必要なことである。そしてそこから優れたモノが生まれる可能性もある。また高級で高価な手仕事も、必要な手続きを正しく経たモノであるならば、芸術品としての評価を得ることも出来るかもしれない。もちろんそこでも正当な報酬以上は求めないという倫理は重要である。

 今後、手仕事が社会の中枢に復帰することは想像できない。しかし手仕事従事者は、過度な自己執着に陥ることなく、機械も適宜柔軟に使いこなし、不必要なモノは作らず正当な報酬以上は受け取らないという倫理を堅持・発信し続けることによって、現代社会が抱える課題解決の方向にむけて積極的役割を担っていくことができるのではないか。

エリカ・チェノウェスの非暴力市民抵抗運動論―Erica Chenoweth, Civil Resistance :What everyone needs to know, Oxford Univ Pr., 2021等を取り上げつつ—:スローズナヤ・クラサタだより(8)

エリカ・チェノウェスの非暴力市民抵抗運動論―Erica Chenoweth, Civil Resistance:What everyone needs to know, Oxford Univ Pr., 2021等を取り上げつつ

 

  エリカ・チェノウェス(Erica Chenoweth)は、1980年生まれの米国の政治学者である。オハイオ州デイトン大学に学び、コロラド大学大学院で政治学のPhDを取得、Denver大学、Wesleyan大学を経て2018年よりHarvard 大学ケネディースクールの行政学教授兼ラドクリフ高等研究所教授に就任、非暴力市民抵抗運動を中心とした研究を進めている。

  2011年にMaria J. Stephan(米国の政治学者。米国平和研究所の非暴力行動プログラム責任者を経て、現在は米国務省の戦略立案にかかわる)との共著Why Civil Resistance Works: The Strategic Logical Nonviolent Conflictを出版(Columbia Univ. Press)、非暴力抵抗運動の方が暴力的方法よりもより効果的に社会改革をもたらすことができる、したがってこれまで国際政治学者たちがとってきた暴力偏重のアプローチは改められべきだと主張し、大きな反響を呼んだ。

  同書は、The Guardian のBook of the Year 2011に選ばれ、2012年には、米国で前年に出版された最も優れた政治学、国際関係論の書物に米国政治学界が与えるWoodrow Wilson Foundation Awardを獲得している。2013年には、公正かつ平和な世界秩序建設のために顕著な提案をした人物を顕彰するGrawemeyer Award for Ideas Improving World Orderも授与された。チェノウェス個人としても、2013年には、国際政治学・平和研究に関して、その年に最も重要な貢献をした40歳以下の研究者に与えられるKarl Deutsch Award ( International Relations)に輝き、Foreign Policy 誌は彼女を2013年の“Top 100 Global Thinkers”のひとりに選んだ。

 このように述べると非暴力研究一筋の人物だったような印象を与えるかも知れない。しかし興味深いことにチェノウェスは、研究をスタートさせた時点では、多くの政治学者と同様に、社会変革における暴力の役割を高く評価していた。テロリズム、内戦、主要な革命(ロシア革命フランス革命アルジェリア革命、アメリカ革命)を研究し、歴史の事例をみても、軍事的に劣った側が優れた側に敗北するはずだと信じていた。

 ところが2006年の夏にInternational Center on Nonviolent Conflict(ICNC)主催のワークショップに参加したことが転機となった。チェノウェスはそこで政治目的を達成するために、非武装市民抵抗が武力闘争よりも効果的な場合がある、セルビアポーランド、フィリピン、米国公民権運動等の事例のように、と説かれた文献に触れることとなった。しかしチェノウェスは、それらはおそらく例外であり、中国の天安門、1956年のハンガリー、1988年のビルマのように民衆蜂起が押しつぶされた事例もある、ガンディーの運動でさえも結局はインド・パキスタンの分離を招いたではないか、成功した事例は他の要因が作用した結果だったのではないかと考えていた。

 このようにチェノウェスは依然として非暴力闘争に懐疑的だったが、ワークショップに参加していたMaria J. Stephanから、暴力抵抗運動と非暴力抵抗運動を体系的に比較考察した研究はまだみられない、非暴力の効果を疑うのなら、大規模な比較研究を行ってみてはどうかと働きかけられた。この結果二人は、非暴力的・暴力的大衆運動がどれほど成功し、それはなぜだったかを体系的・実証的に探る共同研究を行うこととなった。2年間を費やして何千もの資料にあたりながら、1900年から2006年までの時期に政府を打倒もしくは領土的解放に成功した暴力的・非暴力的抵抗運動のうち参加者が1千人以上の323の事例のデータ(それまでにみられない膨大なデータ)を収集・分析した。その結果、非暴力抵抗運動は53%の勝利にいたったのに対し、暴力抵抗運動は26%の勝率であった。つまり非暴力抵抗運動は暴力抵抗運動の約2倍の成功(あるいは部分的成功)をおさめていたのである。しかも20世紀の多くの軍事革命が、新たな抑圧的軍事支配体制を生みがちだったのに対し、非暴力抵抗運動は民主主義体制を導くのにより効果的であることも明らかになった。

 この研究成果が、主に軍事戦略研究を扱っているInternational Security誌2008年夏)に発表され、それまで非暴力をまともに扱ってこなかった研究者たちに大きな衝撃を与えた。膨大なデータを駆使し、暴力の場合と比較して、非暴力が道義的に正しいのみならず、政治的にもより効果的だと結論づけたこの論文は、政治学・国際関係論研究における軍事力信奉の伝統に根本から挑戦する画期的な成果だった。同論文を骨格として事例研究を充実させ、アカデミックな書物として出版したのが上に述べたWhy Civil Resistance Worksであった。

 一方Civil Resistance:What everyone needs to know, Oxford Univ Pr., 2021は、チェノウェスによるはじめての単著である。市民が非暴力抵抗運動を展開するに際して知っておくべきことについて、数年間に市民から受けた質問を軸に、Q&Aの形をとりながら論を進めている。非専門用語を使ってわかり易く書かれているが、内容的には単なる箇条書きのようなものではなく、実例を含み、学問的水準を保った重みのある議論となっている。本書には、非暴力抵抗が社会変革のためのリアリスティックな方法であることを多くの人に知ってもらいたい、という著者の強い思いが貫かれている。

 以下には、同書で述べられていることのうち、とくに印象に残った点を記しておきたい。

 先ずチェノウェスがなぜ非暴力抵抗ではなく市民的抵抗(civil resistance)という言葉を著書のタイトルとして使っているかについての説明である。文中では非暴力抵抗を市民的抵抗とほぼ同義として扱っているが、nonviolentという言葉をタイトルには使用していない。その理由を、多くの人々が非暴力という言葉から、受動的、従属的、非行動、平穏さ、あきらめ等をイメージしているためだという。日本でも確かに非暴力は何もしないことであるかのような受けとめがいまでも強くみられる。しかし日本では市民的抵抗という言葉の方がわかりにくいかもしれない。それだけでは非暴力という性格がうまく伝わらないのではないかと思われる。クラサタ(私)はどう表記するのが良いかと考え、ここではcivil resistance campaignを非暴力市民抵抗運動と訳してみた。

 次にチェノウェスは、運動の原点にガンディーの活動を位置づけている。市民的不服従の元祖としては多くの場合H.D.ソローの名前があげられ、ガンディーも彼の影響を受けていた。しかしチェノウェスは、軍事的に優勢な敵に挑む大衆の運動を組織化した―しかもそれは貧困、差別、不正義等を解消するための制度確立とかかわっていた―点でガンディーこそ市民的抵抗の創始者であるとしている。ここからキング牧師、James Lawson等による活動が生まれ、さらに世界中の反植民地闘争、反人種差別闘争が展開されることとなった。理論や思想の面でもガンディーの影響は大きい。インドに赴きガンディーの方法に学んだアメリカ人哲学者・平和活動家Richard B. Greggが非暴力抵抗の最初の体系的理論書The Power of Non-Violenceを1934年に出版、米国の代表的平和思想家A.J.Muste や戦略的非暴力論研究の父とみなされているGene Sharpもこの系譜に連なっている。クラサタは改めてガンディーの重要性を認識させられた。

 さらに注目したのは、「3・5%ルール」についてである。チェノウェスは人口の3・5%以上を動員させることができれば運動は成功する可能性がきわめて高い、これまで3・5%をこえる人々を動員できた運動で失敗したものはない(ただし1962年のブルネイと2011-14年のバーレーンは例外)と述べている。彼女は、Why Civil Resistance Worksではこの点に言及していなかったが、2012年にTEDx BoulderでTalk を行った際に、「3・5%ルール」という言葉を造り出し、広く知らしめることとなった。アメリカの人口でいうと、約1100万人以上が行動するならば、成果をあげる可能性が高いということになろうか。これについてはクラサタが今年3月7日のブログで書いたように、斎藤幸平も『人新世の「資本論」』の「おわりに」で、この「3・5%ルール」に言及している。社会を理想的な方向に向かわせるためには3・5%の人々が非暴力的な方法で本気で立ち上がることが重要であり、未来は私たちがこの3・5%のひとりとして活動するかどうかにかかっていると述べていた。このようにこのルールはいまでは社会正義の実現を求めて活動する運動家をはじめ多くの人々の間で知られ使われるようになっている。圧倒的多数を動員できなくても、3・5%の人が動けば社会は変えられるというメッセージが、これからも人々を運動への積極的関与へと駆り立てていくのであろうか。

 本書の記述のなかでクラサタが最も印象深く受けとめたのは、非暴力抵抗運動が世界のいたるところでみられるようになった一方、過去10年の間に、世界各地に強権的政治体制が台頭し(例えばインド、ポーランドハンガリー、トルコ、ブラジル、タイ、フィリピン、米国、ロシア、中国等)政府の側が運動を打ち負かしている例が多くなってきているという指摘であった。デジタルな技術を駆使することによって、市民社会に制限を加える「デジタル管理体制」が生まれ、政府は政敵をプロパガンダ情報隠蔽等によって分断し、より巧みに抑圧(=smart repression)するようになっているというのである。

 チェノウェスは、これに対し近年の抵抗運動の方は、デジタル機器の活用によってより多くの人々を集めることには成功しているが、街頭でのデモンストレーションに依存しがちになっており、そのようなシンボリックな抵抗の意思表示によっては、敵対する権力のパワーを必ずしも弱めるにはいたっていないと指摘している。クラサタはこの指摘にははっとさせられた。チェノウェスは市民的抵抗には街頭でのデモンストレーション以外にも多様なものがある、さまざまな方法を巧みに組み合わせて使うのでなければ、運動は成功しない、いつでもどこにでも当てはまる方法というものがあるわけではないと強調している。権力者側も非暴力行動の理論を熱心に研究し、運動抑圧のためにより効果的な方法を考えていることを忘れてはならないだろう。

 さらに現在の運動は、リーダー不在の形態をとりがちである。そのためリーダーが協力体制を作り上げたり、戦略を練ったりすることが難しくなっているとの指摘にも注目した。これと関連して次のようにも述べている。現在の運動では統制のとれない非暴力行動が増えている。そのため統制外の場所で使用された暴力が支持者を遠ざけ、社会を分断させ、運動側の力を弱め、政権側のより強い抑圧を呼び起こしがちになっている。かつてジーン・シャープは非暴力運動ではリーダーが不在である点を戦略上の利点だとしていたが、いまやその条件は変わったといえるのかも知れない。強化された政府側に対抗するためには、以前にも増して戦略的思考を深め、運動を計画的に練り準備することが重要になっており、今後はリーダー不在をよしとするのでなく、むしろ強いリーダーシップを発揮することのできる指導者が必要になるのではないか。内部の暴力をコントロールし、敵側の忠誠心を切り崩すことができなければ、運動の成功は見込めないともチェノウェスは説く。これらの点を考慮すると、現在のミャンマービルマ)の運動はかなり厳しい状況に置かれていると言わざるを得ない。

 本書を読んでクラサタが最も考えさせられたのは、非暴力市民抵抗運動の可能性をより高めていくためには、世界情勢の急激な変化のなかで固着した考えに囚われることなく、その時々あるいはそれぞれの場所において柔軟かつ賢く戦略を練って行かねばならないということであった。これまで有効だったものが、いつまでも有効とは限らないのである。

 ひるがえって日本の非暴力研究の現状はどのようなものなのかとも考えさせられた。日本人の間には、戦後日本こそ非暴力主義を貫いてきたチャンピオンであるという自負がきわめて強い。このため他国の研究に関心を向けることはあまり多くはない。だがこれまでのように非暴力を貫いた人をただ賛美し、暴力行使に出た人を非難してそこで論を終える傾向や、憲法9条へのもたれかかり傾向に甘んじていてよいのだろうか。自負心があるがために日本における非暴力研究はかえって停滞しているとは言えないだろうか。チェノウェスの試みのように、レアルポリティークの観点を踏まえ、暴力・非暴力双方の活動を視野に入れつつ、考察をすすめていくことが重要なのではないか。そのためには暴力を道義的観点からただ切り捨てるという発想が、まず改められなければならないとクラサタは強く思った。

 

山本芳久『世界は善に満ちている』新潮選書、2021年を読んで:スローズナヤ・クラサタだより(7)

山本芳久『世界は善に満ちているートマス・アクィナス哲学講義』新潮選書、2021年を読んで

  いま世界には暴力が蔓延している。いたる所でさまざまな差別、格差をめぐる対立が先鋭化し、抑圧的体制のなかで民主化勢力への弾圧も強化されている。環境問題も深刻さを増しており、コロナ禍が人々の不安に拍車をかけている。どうしようもないほどの悪と悲惨さに満ちた世界を目にしてうんざりする日々だが、そのような状況下に、真摯な学究が「世界は善に満ちている」と言い切っていることに驚き、その主張の学問的根拠を知りたく思って、この本を手に取った。

  著者の山本芳久(1973年生れ)は、哲学、倫理学キリスト教学を専門とし、現在は東京大学で教鞭をとっている。20歳のときにトマス・アクィナスの『神学大全』を読んで考えが大きく揺さぶられ、トマス思想の「刻印」を受けて哲学研究者を志した。トマス・アクィナスとは13世紀にイタリアで生まれ、「哲学と神学の統合」あるいは「信仰と理性の統合」という偉業を成し遂げた中世最大の神学者・哲学者である。山本の主な著書には『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)などがある。

  山本はいまでもトマス哲学から生きる糧と張り合いを得ながら研究を進めており、トマスのテクストは、キリスト教信仰の有無にかかわらず、現代の私たちが生きていくうえでも多くの手がかりを与えてくれると言う。トマスは、全知全能の善なる神によって万物が創造され、この「世界は善に満ちている」という世界観を持っていた。彼の思想の根本をなしていたのは、「肯定の哲学」であった。著者はコロナ禍のなかで悲観的なものの見方をする人が増えているいまこそ、トマスの「肯定」のメッセージが必要とされているのではないかと思って、本書を執筆した。哲学書に不慣れな人でも読み通せるよう、「学生」の質問に「哲学者」が答えるという叙述のスタイルをとって論が進められている。

  私(クラサタ)もぜひ人生を肯定的にとらえ、希望をもって前進したいと考えているので、現代社会の諸問題解決のために参考となるどのような知見が得られるかと楽しみにしながら本書を読み進めた。本書の端々には、トマス哲学の根源に触れることによって、読者の人生を肯定的な方向に向かわせたいとする著者の強い願いが確かに表現されていた。

  クラサタが本書を読んで新たに得た知見としては次のものがあった。

先ず、感情と理性はしばしば対立するものととらえられているが、感情は単なる非合理な気まぐれのようなものではない。トマス哲学においては、感情を理性的に分析するという方法によって、感情と理性がひとつにつながっている。

  あらゆる感情の根源にあるのが愛である。それは特権的な感情であり、他の感情によって置き換えることはできない。愛は、能動的にではなく、受動的に生まれるが、能動的な行為の原動力になるものである。愛は憎しみよりも圧倒的に優位にあり、より強力である。愛がなければ憎しみは生まれない(=愛が憎しみの前提条件になっている)ので、憎しみの根底には愛があると言い得る。

  何かを気に入るということは、この世界のなかに自分の心と響きあうものがあるということを意味しており重要である。気に入るという感情を抱けること自体が、ある種の喜びを与えてくれる。実際にまだ接していなくても、そのようなものがあるというだけで、心が生き生きとしてくる。何かを気に入るとは、「欲求される可能性があるもの」を気に入るということで、欲求の運動が成立するためには、欲求されうるものと欲求する主体との共同作業が必要である。

  愛するとはある人のために善を望むことであり、誰かのことを深く愛すると、その人は単なる他人ではなく、もうひとりの自分になる。その結果もうひとりの自分に好感を与えるもの(音楽であれ美術であれ)が、自分自身にも好感を与えるものとして受けとめ直される。こうすると愛によって得られる喜びは、自分ひとりという狭い枠を超えて広がっていく。そのような広がりを持った愛と喜びの世界がトマスのテクストでは語られている。

  虚しさや手ごたえのなさを克服するためにはどうすればよいか。宗教を信じれば解決されるというものではない。虚しさを簡単に克服する方法はない。ひとつひとつの「刻印」を大切に育んでいくことが、虚しさに圧倒される状況を打開する手がかりになってくれるのではないか。刻印を育むとは、いいなと思うものから心を揺り動かされることで、受動的に生まれる愛されるものが自分の心のなかに住み始める、それによって自分が活性化させられ、新たな生命を与えられるのである。

  このように受動性は否定的なものではなく、むしろ善を確保するために役立つ肯定的なものである。そして善を獲得したり維持したりするために感情は重要な役割を果たしていると言うことができる。

  ところで感情を抱くということは、外界の事物から心を受動的に動かされることであり、心の安定がかき乱されることでもある。その結果人生を台無しにする極端な行動に走ることもしばしば起こりえる。しかしそのようなある種の危険をはらんだ対象との出会いによってこそ、私たちの心は活性化され、能動的に新たな行為に取り掛かるための原動力を与えられる。このように受動的感情を抱くことそのものが、私たちの精神をこの世界に対して深く広く開いていく行為であり、活動である。

  さまざまな欲求されうるものの刻印が心の中に存在している人は、自分を肯定しやすくなる。逆に心のなかにそういうものが全く存在しないと、心が空虚になって、自分を肯定するのが難しくなる。したがって自己肯定感を抱きたいのであれば、自己に拘るよりもむしろこの世界に満ちている様々な事物や人物の「欲求される可能性あるもの」に近づくことが近道であろう。

   以上、クラサタが本書から読み取った内容を紹介した。愛という感情が自分の心の中から能動的に生まれてくるというよりは、むしろ外界の魅力的なものに揺り動かされて受動的に生じるということは考えたことがなかったので、興味深い観点だと思った。また何かを気に入るかどうかは、生きていくうえでとても重要だということにも改めて気づかされた。確かにこの世で何も好きになれないというのは、人間の精神を危機に陥らせるに違いない。さらに困難な状況から逃げてばかりいる臆病な人は、たとえうまく逃げ続けることができたとしても、多くの善を失う、困難に立ち向かうことによってのみ獲得できる善を手に入れる機会を逃してしまうという指摘にも考えさせられるものがあった。

  しかし残念ながら、読後に、深く感動するとか、「刻印」されるということが全くない書物であった。

恵まれた環境に置かれながら、肯定的に人生を展開できないでいる人は、本書で説かれた内容に共感するのかも知れない。

  トマスの時代に現代の課題が視野に入っていないのは当然だが、著者の言う「発展的トマス主義」(現代の文脈のなかに蘇らせたトマス主義)が果たして現代の喫緊の課題に対応できるものとなるのだろうか。例えば暴力連鎖をどう断ち切ることが出来るか、差別撤廃、格差是正、環境問題の解決に向けてどのようなヴィジョンを示してくれるのだろうか。

  またそもそも信仰の有無に関係ない議論だと言いながら、9章以降では全知全能の神、多くの善きものを創造した神の存在を前提に、この世に満ちている善きものとのめぐり会いの可能性を信じていけば、人生を肯定的に生きていくことができると力説されており、強い違和感があった。

アメリカの黒人解放運動における非暴力の位置:スローズナヤ・クラサタだより(6)

アメリカの黒人解放運動における非暴力の位置

 非暴力闘争について思索を深めるために、今回はアメリカの黒人解放運動において非暴力がどのような位置を占めていたのかについて考えてみたい。以下では、中島和子著『黒人の政治参加と第三世紀アメリカの出発(新版)』(みすず書房、2011年)から学んだこと(全体の一部にすぎないが)をまとめる形で記述をすすめる。同書は、1989年に中央大学出版部から出版された同タイトル書の新版である。中島が1958年から3年間のアメリカ留学中に、南部の黒人社会を調査、同地域の黒人解放運動の渦中に入り込み、リーダーのロバート・ウィリアムズ等と直接かかわり、FBIの捜査の対象となるなど、かなり危険な状況にも置かれながら研究をすすめまとめあげた成果である。冷静な研究者の目と黒人解放を支援したいとする強い情熱がともにみられる感動的書物である。FBI捜査員への対応の場面など、クラサタ(私)はドキドキしてしまい、20代でよくもあのような応じ方ができたものだと感心する。中島は帰国後の1963年には、冤罪に問われ1961年からキューバに亡命中だったウィリアムズの計らいで、キューバ革命記念祭に招待され約2か月間キューバを視察している。さらに1969年にキューバ・中国での亡命生活を打ち切り、米国に帰国したウィリアムズが、無実を明かすために法廷闘争を展開した際には、公正な裁判を求めて、日本で1万余名もの署名を集めアメリカの関係者に送るなどの活動にも精力的に取り組んだ(ウィリアムズは、76年には告訴取り下げ勝訴となり、77年には来日、96年に71歳で永眠)。なおここでのテーマからははずれるが、中島は1999年以後研究テーマをがらりと変え、六甲山周辺の「磐座」の研究と保護活動に力を入れているという。この大胆な変わり方にもクラサタは驚き目をまんまるにしている。

 さて本題に入るが、アメリカにおいて非暴力抵抗は17世紀の植民地時代にクエーカー教徒によって採用され、ジョン・ウールマン、ヘンリー・D・ソロー、近現代ではA.J.マストなどに引き継がれてきた。トルストイやガンディーがソローの思想から大きな影響を受けたことはよく知られている。しかし1960年代に至るまでのアメリカでは、非暴力は少数派のものであり続けていた。それは不正には暴力で立ち向かってでも正義を求める「開拓者精神」がアメリカ社会に浸透していたためでもあった。しかも合衆国憲法修正第2条や多くの州憲法は、市民による武装の権利を保障してきた。この結果、不正に反撃せず、相手の暴力を甘受するという非暴力は、臆病者が採る方法だとされてきたのである。

 しかし1950年代半ばから1964年の公民権法制定にいたる黒人解放運動において非暴力はきわめて大きなうねりを作り上げることとなった。何故黒人の間に非暴力運動が広がったのだろうか。まずそもそも南部の黒人社会が非武装化地帯であったことに注意を払っておきたい。そのうえ白人たちは、ガンディーによって採られた非暴力行動は、インドのような「後進」国において有効な手段であるから、「後進」人種の黒人にもふさわしい方法であるに違いないとの偏見を持っていた。黒人が白人と対等になろうとして、白人に反撃したり、武装防衛の思想を持つことは許さなかったが、黒人が非暴力方式を採用することには比較的寛容であり同情的ですらあった。このことが黒人の間に非暴力への支持を増やしていく契機となったのである。

 この黒人解放運動において、非暴力はキリスト教と結びつき、牧師が闘争の主導権を握ることとなった。それはなぜだったのだろうか。先ず奴隷所有者たちは、黒人の効率良い支配のためにキリスト教を活用しようと考えた。その際、クエーカーを例外として、ほとんどのキリスト者たちは奴隷制を肯定し、奴隷たちを日曜ごとに礼拝のため教会に集め、神が彼らを奴隷にしたと信じさせ、主人に逆らうならば神に厳しく罰せられると説教した。来世には解放されるとの期待を持たせ、支配者に対して従順かつ無抵抗であることを推奨したのである。

 日曜礼拝で白人の説教を聞くのは強制だったが、黒人たちは嬉々として礼拝に集まった。説教などはほとんど聞かずに、同じ農園に働く親子兄弟、友人と公然と顔を合わせることが出来るのを喜んだのである。さらに日曜礼拝は鬱積した感情を発散させる唯一の場でもあった。教えられた讃美歌を歌う際にも存分に感情を発露させることができた。このような奴隷たちの態度に接し、白人説教師たちは、しだいに奴隷への説教を負担に感じるようになっていった。このため奴隷所有者は、奴隷のなかから人を選び、彼らにバイブルを読み説教することを教え、厳格な監視と指導のもとに代理を務めさせることとした。黒人の説教師は、多くの場合、奴隷と主人との間に生まれた混血児のなかから選ばれた。キリスト教人道主義、人間としての平等の強調は、奴隷所有者が奴隷に知られることを恐れた教えであり、細心の注意をはらって奴隷専用の説教集が作られ、黒人説教師の言動には厳重な監視の目が光っていた。しかし代理となった黒人説教師は、自ずと仲間とともに奴隷の立場を悲しみ、絶望を表現することとなり、白人説教師の場合よりもはるかに、奴隷たちの関心をひき寄せることとなった。

 とは言え黒人にとっての礼拝の魅力は、依然としてキリスト教でも説教でもなく、それが奴隷にとって唯一の集合の自由と自己表現の機会を保障した場であった点にあった。奴隷所有者たちは、奴隷たちが熱狂的な歌や踊りに陶酔している様子を見て安心するが、黒人霊歌には、南部からカナダにむかう地下鉄道が暗示されていた場合もあったという。そこでうたわれる「天国」とはカナダのことで、地下鉄道へ逃げ込むとカナダへ行けるかもしれないという望みがうたわれていた。奴隷所有者たちは、そのことに気づかぬまま無邪気に聞き入っていた。キリスト教を隠れ蓑として黒人たちは、表面的には白人に従うふりをして、抵抗するすべを獲得していったのである。

 しかし奴隷所有者は、キリスト教が奴隷の間に浸透するにつれ、みずから蒔いたジレンマの種に気づくようになる。奴隷制安泰のために設けた日曜礼拝が、やがて反乱のための礼拝へと転化する危険を察知した奴隷所有者たちは、黒人の説教や宗教的集会を禁止しようとしたが、黒人説教師と奴隷のための日曜礼拝はすでに南部プランテーションに深く根をはり、法などで一掃することはできなかった。多くの奴隷は、屈服を装いながらも、精神的には屈服を乗り越える境地を見出そうとして神に接近し、そこに黒人キリスト教の世界を誕生させていった。こうして白人による黒人支配のために導入されたキリスト教は、次第に黒人の精神的武器となり、日曜集会は、奴隷解放後には活動拠点としての黒人教会を生み、教会が後の非暴力闘争の苗床となったのである。

 ところがキング牧師をリーダーとして非暴力闘争が展開されたとき、基本的にはキングの考えに賛成しつつも、置かれた環境の違いから武装自衛の方法をとった事例もあった。中島が深くかかわることとなったロバート・ウィリアムズの場合であった。彼が中心となって活動していたノース・カロライナ州モンロー市は、非暴力闘争を展開する条件を欠いていた。そのため、ウィリアムズがとったのは武装防衛方式であった。

 中島によれば、アメリカにおける黒人の非暴力抵抗が成功するには、次の条件が必要であった。第1は第三者的勢力(世論)の存在、第2はマス・メディアの存在、第3は強力なリーダーシップを持ち運動のシンボルとなる中心人物(カリスマ的リーダーであることが望ましい)の存在、第4に、よく訓練された規律ある直接行動隊の存在である。モンロー市では、1と2の条件が欠けており、事件の真相を外部にもらすことが禁じられていた。ウィリアムズはキングの非暴力方式に反対ではなかったが、それが通用しない場合もあることを指摘し、非暴力の鉄則化に反対していた。暴力に対して無条件に無抵抗であってはならない、自己防衛のための威嚇の武装は、白人たちに暴力、物理的破壊力を行使させないための抑止として不可欠の策であると説いていた。実際、彼の村では、黒人が無防備と知るや白人は無制限に暴力行為を働いたが、いったん黒人に防備のあることを知ると、白人には生命の危険を冒してまで暴力を働く勇気はなく、武装防衛は白人の暴力行為を未然に防ぐことに効果的であった。しかもウィリアムズの採った方法は、不正を排除するためには暴力をもいとわないという「開拓者精神」に合致し、人権尊重を根本道徳とする近代的思想でもあった。だが白人はウィリアムズに対して苛酷であり、ウィリアムズは1961年8月にはキューバへの亡命を余儀なくされてしまった。

 キング牧師は、黒人が自衛のために武力を用いることに全く否定的だったわけではない(場合によっては勝利をものにする可能性もあると述べていた)が、社会的に組織化された大衆の行進をより有効だとみていた。実際、1950年代後半から60年代にかけての南部の政治風土のなかでは、非暴力直接行動という「武器」に身をゆだねて活動した運動のみが、成果をあげることが出来たのであった。

 当時のアメリカでは、黒人が非暴力を掲げて進む限り、そこにはある程度の寛容が約束されていたが(そもそも白人たちは黒人の非暴力を「弱者」によるものとして容認)、この旗印を掲げないならば、暴力主義者、共産主義者、ブラック・ナショナリスト等のレッテルが貼られ、リンチ、暗殺、社会的抹殺の対象となり、ウィリアムズの例が示すように、運動の芽はたちどころに摘み取られてしまった。ウィリアムズの失敗以後、非暴力運動の指導者たちは、より慎重に運動を展開することを余儀なくされた。それゆえ非暴力主義は当時のアメリカにおける八方塞がりの苦境を反映したものであり、その状況を突き破るもっとも聡明な、ある意味では実現可能な唯一の突破口として探りあてられたものでもあったのである。

 もちろん非暴力闘争を成功させるにあたって、キング牧師の思想的深化はきわめて重要だった。特に彼が被抑圧者のみならず抑圧者の精神的解放をもめざし、黒人を白人に対する解放者の位置にすえる思想に到達したことの意味は大きい。それは絶望とあきらめのなかで、とかく自己否定的で自滅的になりがちな黒人に、自信と威厳さらには使命感を持たせることによって運動を活性化させたのである。しかし同時にロバート・ウィリアムズの例が示すように、非暴力の鉄則化には適さない場合もあることへの理解と柔軟な対応も必要であろう。

 以上を学び、クラサタは次のように考えた。非暴力闘争を成功に導くために、リーダーが持つべき思想やリーダーシップのあり方について考察することは今後とも重要である。しかしそれだけに議論を集中させるのでなく、非暴力がどのような条件下で最もよく効力を発揮しうるのか、またそのような環境をどうつくりあげて行くことができるかの考察にも力を注いでいかなければならないのではないか。

アウンサンスーチーの非暴力主義:スローズナヤ・クラサタだより(5)

アウンサンスーチーの非暴力主義 

  いまミャンマーで展開されている非暴力闘争に大きな衝撃を受けている。軍政を何としても倒したいとする人々の意志の力と、死をも覚悟した厳しい姿勢に圧倒される。AFP通信によると4月11日の時点で700名以上もの市民(幼い子供を含む)が殺害されたというが、それでも人々はひるまない。1988年の民主化闘争の際には1000人をこえる死者を出したと言われている。市民の多くが、軍政を倒すためには、同程度の犠牲はやむを得ないと考えているのだと思われる。それにしても軍が人々の頭を狙って撃つのは許しがたい。かつてアウンサンスーチーの闘いを描いた《The Lady》という映画を観た時、軍が人々の頭を打ち抜いている場面が多かったのをクラサタ(私)は改めて思い出す。ジーン・シャープは非暴力闘争を「暴力なき戦争」と呼び、まぎれもない「戦い」であると強調している。今回の闘争はまさしく「戦争」そのものである。シャープの説く戦術が多用されているとともに、現代的兵器としてのSNSが駆使されているのが注目される。

  ミャンマーに限らず、いま世界各地では差別撤廃や格差是正を求めて、市民による強権的政府に対する非暴力闘争が活発になっている。今後とも民主化を求める非暴力闘争は間違いなく強まっていくだろう。

  そのなかで、憲法9条への寄りかかり姿勢の強い日本人の間では、非暴力を闘いとしてとらえる観点がいまなおきわめて弱い。大多数の日本人にとって、非暴力は実践から遠く漠然としたものに留まっているのではないか。

  だが世界各地で展開されている非暴力闘争について理解を深め、世界で非暴力が機能する領域を広げていきたいとするならば、武力との緊張関係において非暴力をダイナミックにとらえる観点の獲得が欠かせない。このことを意識しながら、今回は、アウンサンスーチーの非暴力主義の特色について考えてみたい。

  アウンサンスーチーは、1945年6月19日、日本占領下のビルマのラングーン(現在のヤンゴン)に生まれる。父親のアウンサン将軍はビルマ国軍を率い、抗日闘争を展開、太平洋戦争終結後は、宗主国の英国と交渉を行った独立運動指導者だった。独立直前の1947年7月(ビルマ独立は1948年1月)に政敵に暗殺されてしまうが、「ビルマ独立の父」としていまでも尊敬を集めている。

  父亡き後のアウンサンスーチーは、元看護士であり上座仏教徒ビルマで多数派を占める)でもあった母親キンチーの厳しい躾のもとで厳格な上座仏教徒として育つ。しかし通った学校はキリスト教系であった。キンチーは、ビルマ民族出身だが、カレン民族が多く住む地域で育ち、父親がキリスト教徒だったこともあって、非ビルマ少数民族や非仏教徒にたいして寛容であり、アウンサンスーチーはその母の影響を強く受けたという。キンチーは、ビルマ独立後はウー・ヌ首相と信頼関係を保ち、1953年に社会福祉担当大臣やビルマ赤十字社代表などを務めていたが、1960年には、駐インド大使に任命(67年に退任)される。アウンサンスーチー(当時15歳)は母とともにインドに移り住み、1964年に英国のオクスフォード大学に留学するまでの時期を同地の学校(キリスト教系)に通って過ごした。その間にネルー首相一家と親交を深め、インドに行く前から関心を抱いていたガンディーの思想にいっそう傾倒していった。インド滞在中の1962年にはミャンマーで国軍によるクーデターが発生、ウー・ヌ―政権は倒され、ネウィンを議長とした急進的な社会主義政策(マルクス主義とは異なった独自の路線、外交は中立)がとられることとなった。これ以降ミャンマーでは政治の中心に国軍が位置し続けることとなる。

  アウンサンスーチーは、オクスフォード大学では哲学、政治学、経済学を学び、67年に卒業、69年には米国にわたり、ニューヨーク大学大学院(国際関係論専攻)を経て、71年までの約3年間は国連に勤務した。72年には英国人チベット研究者のマイケル・アリスと結婚、ブータン、ネパール滞在を経て英国に戻り二人の息子を育てる。その後、オクスフォード大学ロンドン大学東洋アフリカ研究所〈SOAS〉で研究、修士号(テーマは、ビルマ近代文学におけるナショナリズムのインドとの比較)を取得している。父アウンサン将軍に関する研究にも意欲を持ち、1985年には約10か月間日本に滞在している(京都大学東南アジアセンター客員研究員として)。

  1988年4月母親危篤のためミャンマーに帰国したことをきっかけに、政治の世界に飛び込むこととなる。そのころちょうど反軍民主化運動がミャンマー全土に広がっており、彼女への期待が高まったためである。同年9月に国民民主連盟(NLD)を結成して書記長に就任してからは、運動の象徴的存在となり、最前線に立って活動することとなる。ネウィン批判を展開した結果、1989年7月以降、自宅軟禁となる。1990年5月の総選挙ではアウンサンスーチーが立候補できなかったにもかかわらずNLDが圧勝した。1991年10月には軍事政権に対して非暴力による民主化運動を率いたことが評価され、ノーベル平和賞を授与されている。1回目の自宅軟禁は1995年7月に解かれたが、3度目が解かれる2010年11月までに自宅軟禁は延べ15年以上にもわたった。2011年には軍事政権が自ら民政移管を実現させた。アウンサンスーチーは、2012年4月の補欠選挙にNLDのリーダーとして出馬、当選して下院議員となった。その後、2016年3月には外務大臣等の国務大臣に、4月には新設された国家顧問となり、国家の事実上の最高指導者になった。ところが2020年11月の総選挙でNLDが圧勝した結果、惨敗した国軍によって今年2月1日にクーデターが引き起こされ、現在、アウンサンスーチーは4度目の自宅軟禁を余儀なくされている。

  アウンサンスーチーの非暴力主義は、「暴力の連鎖」を断ち切ることを最重要課題とし、不当な命令や権力行使に対しては不服従を「義務」とする考え方を自他に求めてきた。それを根幹で支えていたのは、上座(部)仏教徒としての信念とインド滞在中に深めていたガンディーの非暴力思想である。

  ここではこのうちまだほとんど知られていない熱心な仏教徒としての側面をみておきたい。彼女は上座仏教の聖典パーリ仏典を用いながら、西洋に由来するととらえられがちな人権や民主主義という概念が、仏教と親和的であるとしばしば国民に語ってきた。自宅軟禁中も毎朝4時半には起床し、上座仏教の内観瞑想を1時間はおこなっていたという。とくに自力救済的観点から本人の意志と努力によって心のなかの恐怖を克服する闘いを重んじていた。しかし修行だけに専念する姿勢には否定的であり、仏教は社会と強くかかわらねばならない、覚りを得る過程で獲得した慈悲や智慧を他者救済に活用せねばならないとも説いてきた。

  彼女が「恐怖からの自由」を自分のものにしていること示したエピソードがある。1898年4月に演説会開催のため数人のNLD党員たちと目的地に向かっていて、国軍に発砲されそうになった時、党員たちには道の端を歩かせ、自らは道の中央をひとりで兵士に向かっていった。射撃命令が出されていたにもかかわらず、兵士らは結局彼女を撃つことができず、全員無事にその場を通り抜けることが出来たというのである。

  アウンサンスーチーの非暴力主義は、いまに至るまで揺らぐことなく鞏固であり続けている。しかし彼女は、場合によっては武力行使を容認するという柔軟な姿勢も持っており、その点で自ら述べているように「ガンディーと同じとはいえない」。次のようにも語っている。「暴力の道をとることを選択した人々をけっして否定しない。民主主義を実現するにあたって、正しい手段を私たちが独占しているとは言わない。私たちは彼らの安全を保障することはできない。今日のビルマの文脈においては、非暴力がもっともよい方法だと思うが、だからといって〈正義の戦い〉に従事している人々を非難する気はまったくない」。

  国内の少数民族や、弾圧を逃れタイに在住して活発な反軍政・民主化闘争を繰り広げている人々は、基本的にアウンサンスーチーを支持し非暴力を重視しているが、彼女の柔軟な姿勢を正当化の根拠に、武装手段の行使や、ビルマ国軍による攻撃に対する武装自衛を肯定する傾向を持っている。

  アウンサンスーチーがこのような柔軟な姿勢を持った背景には、軍人として活躍した父親が、日本の占領終結後は軍籍を離れ政治的手段によって英国と独立交渉をしていたことや、ネルソン・マンデラが、冷戦激化の時代には効果的方法として武装闘争を選ばざるを得なかったが、最終的には非暴力に戻ったことから学んだものが大きかったと言われている。彼女は「もし選択の余地が存在し、どちらも同程度の成功の可能性があると考えられる場合は、明らかに非暴力の手段を選ぶべきだと思う。それは傷つく人々がより少なくなることを意味するからだ」とも述べていた。このようにアウンサンスーチーの非暴力主義は、目的と手段の一致を原則としながらも、置かれた歴史的・政治的状況を考慮し選択する政治的戦術としての性格も強く持っていた。だからこそ武装手段をとるタイ在住の活動家や少数民族からも支持され、大きな影響力を保ち続けることが可能になっているのだと思われる。

  このようにミャンマーでの非暴力闘争は、非暴力について揺るぎない信念を持つリーダーが存在し、しかもそのリーダーが状況によっては武力行使を容認する柔軟な姿勢を併せ持つことによって、影響力を保ち続けているということが出来るのである。

  なお『朝日新聞』4月17日付朝刊によると、ミャンマーでは、4月16日、アウンサンスーチー率いるNLDの支持派が、アウンサンスーチーを国家顧問、ウィンミン(2028年3月から今年の軍によるクーデターまで大統領であった)を大統領に据え、複数の少数民族を閣僚とした「統一政府」の樹立を宣言した。同政府は、国軍による統治を拒否し、今後、国際社会からの支持と承認を訴えていくという。ミャンマーではかつて1995年の総選挙で当選したNLD議員の一部によって同年12月18日、米国メリーランド州ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)という亡命政府(2012年9月に本国での改革運動に合流するため解散)が樹立されていた。その時の経験も活かされていくに違いない。

 クラサタは、今回成立した統一政府が一刻も早く国際的承認を得ることができるよう心から願っている。

 

参照文献

根本敬ビルマ民主化闘争における暴力と非暴力:アウンサンスーチーの非暴力主義と在タイ活動家たちの 理解」『年報政治学』(Ⅱ政治における暴力)、2009。 根本敬・田辺俊夫『アウンサンスーチー:変化するビルマの現状と課題』角川書店、2012。 根本敬アウンサンスーチーの非暴力主義:ガンディーの精神を二一世紀に引き継ぐ」『キリスト教文化研究所紀要』2015。 根本敬アウンサンスーチービルマ民主化と国民和解への道』岩波現代全書、2015。 田崎國彦「アウンサンスーチーが用いたパーリ仏典:仏教の社会化と民主主義の諸原理」『印度学仏教学研究』63-2,2015。

ベネディクト・アンダーソン(加藤剛訳)『ヤシガラ椀の外へ』NTT出版、2009年を読んで:スローズナヤ・クラサタだより(4)

ベネディクト・アンダーソン加藤剛訳)『ヤシガラ椀の外へ』NTT出版、2009年を読んで

  本書は、ベネディクト・アンダーソンが日本の読者(主に研究を志す若い人)向けに執筆した知的遍歴をたどる自伝である。当初日本語版しかなかったが、今は英語版で読むこともできる。B.アンダーソンといえば、ナショナリズム論の古典的名著『想像の共同体』で世界的に有名だが、東南アジア研究(インドネシア中心)を牽引してきた地域研究者としても知られる。米国のコーネル大学政府(政治)学・東南アジア研究の教授を35年間つとめ、2015年に亡くなった。

  堅苦しい研究一筋の学者だったかと予想して本書を繙くと見事に裏切られる。本書は『想像の共同体』に勝るとも劣らぬ衝撃力を持っている。タイトルは、インドネシアやシャム(著者はタイにシャムという呼称を意識的に使用)にみられる諺「ヤシガラ椀の下のカエル」からとっている。間違ってヤシガラ椀に飛び込んだカエルが、脱出したいともがいても抜け出せず、やがて椀のなかが世界のすべてだと思い込むようになるという意味である。本書でアンダーソンは、母国や大学のなかがすべてだと思い込みがちな研究者たちに向かって、学問研究にとって重要なのはヤシガラ椀の外に出ることだと説いている。かつてアメリカの日本研究の大家が、研究を衰退させないためには、狭い領域に閉じこもることなく、他分野の研究者にも影響を与えることのできる成果を出す必要がある、B.アンダーソンのように・・・と語ったことがあったのを思い出す。

  アンダーソンは、1936年に中国の昆明アイルランド人の父とイギリス人の母との間に生まれた。その後米国を経て、アイルランドに移住し、1958年の渡米まで同国で過ごすこととなる(1967年にアイルランド市民権を獲得、アイルランド・パスポートを持つ)。その間にイングランドイートン校に学び、ケンブリッジ大学で古典学を専攻した。ケンブリッジ大学卒業後、政治学とは無縁だったにもかかわらず、米国コーネル大政治学教授アシスタントの職を友人に勧められコーネル大学に赴いた。当初は大学教授になることも、コーネル大学で長く過ごすことも全く考えていなかったという。しかしインドネシア専門家のジョージ・ケーヒンの授業に魅せられ、コーネルに残ることとなった。大学院での博士論文のテーマは〈日本占領期のインドネシア〉だった。

  1961年から64年までインドネシアに滞在し、同国研究に情熱を傾け、残りの人生をインドネシア研究に捧げるつもりだった。ところが1965年のクーデター(「9月30日事件」と呼ばれるが対象としたのは10月1日のクーデター)を分析し、スハルトを批判した報告書の共同執筆者のひとりとなった結果、72年の訪問時に国外退去となり、その後スハルト政権失墜までの27年間追放され続けてしまう。インドネシアをフィールドに研究を継続することが難しくなったため、タイ、フィリピンへと対象を広げ、比較の観点を獲得、それが『想像の共同体』をはじめとするその後の研究につながることとなった。

 ラテン語ギリシア語を含むヨーロッパ諸言語(イギリス語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、オランダ語)のほか、インドネシア語タイ語タガログ語を操り、あふれんばかりのパッションを持って研究にあたり、100名もの大学院生の博士論文を指導し、かたやピアノでクラシック音楽を弾くことを好み、生涯独身でありながらインドネシア人の息子2人を養子にするなど、何とも躍動感に満ちた生涯であった。

  著者が力をこめて説いているのは、創造的学問のために決定的に重要なのは冒険精神だということであり、「カエルは、解放のための闘いにおいてヤシガラ椀のほか失うべき何ものをも持たない。萬国のカエル團結せよ!」という言葉で本書を結んでいる。このような人生をたどるだけでも十分に面白く得るところが多いのだが、私(クラサタ)にとってさらに興味深かったのは本書中のナショナリズムに関する記述であった。

  著者によれば、第二次大戦後にナショナリズムについて書かれたほとんどすべての理論的著作は英国で出版され、しかも執筆者の多くはユダヤ人であったという。ナショナリズム論に関心ある者ならば誰でも名前を聞いたことのある研究者のエリ・ケドゥーリ、アントニー・スミス、アーネスト・ゲルナー、エリック・ホブズボームは皆ユダヤ人だったのである。アンダーソンは、ナショナリズムを原初的なものととらえるケドゥーリやスミスとは異なって、近代化のなかで構築されたとする点で、ゲルナーやホブズボームに近かった。しかしホブズボーム等も英国に関しては連合王国を超ネーション(スープラ・ネーション)とみなしてその一体性を信じていた。

  英国での論争において異色だったのは、スコットランド人のトム・ネアンであり、彼は『ブリテンの解体』において、英連合王国が過去の化石化した帝国主義的遺物であるに過ぎず、いずれ4つのネーションに分裂する運命にある、その先駆けになるのはスコットランドだと論じ、ホブズボームらによって激しく攻撃されていた。アンダーソンはこのネアンの議論に共鳴し、ネアン擁護と英国での論争への積極的関与を目指して『想像の共同体』を構想したのだという。同時に、第三世界の反植民地主義的運動を論争のなかに位置づけることによって、ナショナリズム論をヨーロッパ中心主義から解放しようとする狙いも持っていた。さらにナショナリズムリベラリズムマルキシズムのような「イズム」をこえ、なぜ強い情動的な力(死をも厭わぬほどの)を発揮するのかについても説明しようとしていた。

 この箇所を読んで、いかにもアイルランド人らしいと思った。ナショナリズム論を考察するときには、論者の出自・思想的背景についても考慮する必要があると気づかされた。『想像の共同体』はナショナリズム形成に際して出版資本主義のもたらした影響が大きかったことを説いた本だと思っていたが、主にイギリスの読者を想定し、特定の狙いを持って書かれたものであり、無色透明の純理論的考察の結果ではなかったのである。

  さらに強く印象に残ったのは、次の文章(とくに後半部分)であった。「ナショナリズムグローバル化は私たちの視野を狭め、問題を単純化させる傾向を持つ。こうした傾向に抗う一方で、両者が持つ解放のための可能性を洗練された形で融合させること、明確な政治的意識を持ち、賢明なやり方で融合させることが、今後はこれまで以上に必要とされる」。

 アンダーソンのこのような観点は、『三つの旗のもとに アナーキズムと反植民地主義的想像力』(山本信人訳、NTT出版2012年)のなかで一層鮮明に描かれている。これは1860年代初頭に生まれた3名のフィリピノ愛国者、ホセ・リサール(フィリピン・ナショナリズムの父)、イサベロ・デ・ロス・レイエス(人類学者でジャーナリスト)、マリアノ・ポンセ(活動家)と、キューバ独立運動、フィリピンの民衆蜂起、ヨーロッパの反政府活動との絡みを扱った大変興味深い書物である。ここではグローバルなアナーキズムとローカルなナショナリズムが結びついていたこと、フィリピン・ナショナリズムがフィリピンでというよりは、例えばスペインの都会でのアナーキズムとの接点から芽生えたものだったといったこと等々が指摘されている。

 ナショナリズムグローバリズムアナーキズムには、それぞれ活かせる面があるとする著者の柔軟な捉え方に印象づけられた。日本ではいまでもナショナリズムを悪として切り捨てる傾向が強くみられるが、そのような単純さをこえて、椀の外へと飛び出る必要があるのではないか。

 読後のクラサタは、これまで以上に自由にピョンピョン跳ね回りたいものだと思っている。