アウンサンスーチーの非暴力主義:スローズナヤ・クラサタだより(5)

アウンサンスーチーの非暴力主義 

  いまミャンマーで展開されている非暴力闘争に大きな衝撃を受けている。軍政を何としても倒したいとする人々の意志の力と、死をも覚悟した厳しい姿勢に圧倒される。AFP通信によると4月11日の時点で700名以上もの市民(幼い子供を含む)が殺害されたというが、それでも人々はひるまない。1988年の民主化闘争の際には1000人をこえる死者を出したと言われている。市民の多くが、軍政を倒すためには、同程度の犠牲はやむを得ないと考えているのだと思われる。それにしても軍が人々の頭を狙って撃つのは許しがたい。かつてアウンサンスーチーの闘いを描いた《The Lady》という映画を観た時、軍が人々の頭を打ち抜いている場面が多かったのをクラサタ(私)は改めて思い出す。ジーン・シャープは非暴力闘争を「暴力なき戦争」と呼び、まぎれもない「戦い」であると強調している。今回の闘争はまさしく「戦争」そのものである。シャープの説く戦術が多用されているとともに、現代的兵器としてのSNSが駆使されているのが注目される。

  ミャンマーに限らず、いま世界各地では差別撤廃や格差是正を求めて、市民による強権的政府に対する非暴力闘争が活発になっている。今後とも民主化を求める非暴力闘争は間違いなく強まっていくだろう。

  そのなかで、憲法9条への寄りかかり姿勢の強い日本人の間では、非暴力を闘いとしてとらえる観点がいまなおきわめて弱い。大多数の日本人にとって、非暴力は実践から遠く漠然としたものに留まっているのではないか。

  だが世界各地で展開されている非暴力闘争について理解を深め、世界で非暴力が機能する領域を広げていきたいとするならば、武力との緊張関係において非暴力をダイナミックにとらえる観点の獲得が欠かせない。このことを意識しながら、今回は、アウンサンスーチーの非暴力主義の特色について考えてみたい。

  アウンサンスーチーは、1945年6月19日、日本占領下のビルマのラングーン(現在のヤンゴン)に生まれる。父親のアウンサン将軍はビルマ国軍を率い、抗日闘争を展開、太平洋戦争終結後は、宗主国の英国と交渉を行った独立運動指導者だった。独立直前の1947年7月(ビルマ独立は1948年1月)に政敵に暗殺されてしまうが、「ビルマ独立の父」としていまでも尊敬を集めている。

  父亡き後のアウンサンスーチーは、元看護士であり上座仏教徒ビルマで多数派を占める)でもあった母親キンチーの厳しい躾のもとで厳格な上座仏教徒として育つ。しかし通った学校はキリスト教系であった。キンチーは、ビルマ民族出身だが、カレン民族が多く住む地域で育ち、父親がキリスト教徒だったこともあって、非ビルマ少数民族や非仏教徒にたいして寛容であり、アウンサンスーチーはその母の影響を強く受けたという。キンチーは、ビルマ独立後はウー・ヌ首相と信頼関係を保ち、1953年に社会福祉担当大臣やビルマ赤十字社代表などを務めていたが、1960年には、駐インド大使に任命(67年に退任)される。アウンサンスーチー(当時15歳)は母とともにインドに移り住み、1964年に英国のオクスフォード大学に留学するまでの時期を同地の学校(キリスト教系)に通って過ごした。その間にネルー首相一家と親交を深め、インドに行く前から関心を抱いていたガンディーの思想にいっそう傾倒していった。インド滞在中の1962年にはミャンマーで国軍によるクーデターが発生、ウー・ヌ―政権は倒され、ネウィンを議長とした急進的な社会主義政策(マルクス主義とは異なった独自の路線、外交は中立)がとられることとなった。これ以降ミャンマーでは政治の中心に国軍が位置し続けることとなる。

  アウンサンスーチーは、オクスフォード大学では哲学、政治学、経済学を学び、67年に卒業、69年には米国にわたり、ニューヨーク大学大学院(国際関係論専攻)を経て、71年までの約3年間は国連に勤務した。72年には英国人チベット研究者のマイケル・アリスと結婚、ブータン、ネパール滞在を経て英国に戻り二人の息子を育てる。その後、オクスフォード大学ロンドン大学東洋アフリカ研究所〈SOAS〉で研究、修士号(テーマは、ビルマ近代文学におけるナショナリズムのインドとの比較)を取得している。父アウンサン将軍に関する研究にも意欲を持ち、1985年には約10か月間日本に滞在している(京都大学東南アジアセンター客員研究員として)。

  1988年4月母親危篤のためミャンマーに帰国したことをきっかけに、政治の世界に飛び込むこととなる。そのころちょうど反軍民主化運動がミャンマー全土に広がっており、彼女への期待が高まったためである。同年9月に国民民主連盟(NLD)を結成して書記長に就任してからは、運動の象徴的存在となり、最前線に立って活動することとなる。ネウィン批判を展開した結果、1989年7月以降、自宅軟禁となる。1990年5月の総選挙ではアウンサンスーチーが立候補できなかったにもかかわらずNLDが圧勝した。1991年10月には軍事政権に対して非暴力による民主化運動を率いたことが評価され、ノーベル平和賞を授与されている。1回目の自宅軟禁は1995年7月に解かれたが、3度目が解かれる2010年11月までに自宅軟禁は延べ15年以上にもわたった。2011年には軍事政権が自ら民政移管を実現させた。アウンサンスーチーは、2012年4月の補欠選挙にNLDのリーダーとして出馬、当選して下院議員となった。その後、2016年3月には外務大臣等の国務大臣に、4月には新設された国家顧問となり、国家の事実上の最高指導者になった。ところが2020年11月の総選挙でNLDが圧勝した結果、惨敗した国軍によって今年2月1日にクーデターが引き起こされ、現在、アウンサンスーチーは4度目の自宅軟禁を余儀なくされている。

  アウンサンスーチーの非暴力主義は、「暴力の連鎖」を断ち切ることを最重要課題とし、不当な命令や権力行使に対しては不服従を「義務」とする考え方を自他に求めてきた。それを根幹で支えていたのは、上座(部)仏教徒としての信念とインド滞在中に深めていたガンディーの非暴力思想である。

  ここではこのうちまだほとんど知られていない熱心な仏教徒としての側面をみておきたい。彼女は上座仏教の聖典パーリ仏典を用いながら、西洋に由来するととらえられがちな人権や民主主義という概念が、仏教と親和的であるとしばしば国民に語ってきた。自宅軟禁中も毎朝4時半には起床し、上座仏教の内観瞑想を1時間はおこなっていたという。とくに自力救済的観点から本人の意志と努力によって心のなかの恐怖を克服する闘いを重んじていた。しかし修行だけに専念する姿勢には否定的であり、仏教は社会と強くかかわらねばならない、覚りを得る過程で獲得した慈悲や智慧を他者救済に活用せねばならないとも説いてきた。

  彼女が「恐怖からの自由」を自分のものにしていること示したエピソードがある。1898年4月に演説会開催のため数人のNLD党員たちと目的地に向かっていて、国軍に発砲されそうになった時、党員たちには道の端を歩かせ、自らは道の中央をひとりで兵士に向かっていった。射撃命令が出されていたにもかかわらず、兵士らは結局彼女を撃つことができず、全員無事にその場を通り抜けることが出来たというのである。

  アウンサンスーチーの非暴力主義は、いまに至るまで揺らぐことなく鞏固であり続けている。しかし彼女は、場合によっては武力行使を容認するという柔軟な姿勢も持っており、その点で自ら述べているように「ガンディーと同じとはいえない」。次のようにも語っている。「暴力の道をとることを選択した人々をけっして否定しない。民主主義を実現するにあたって、正しい手段を私たちが独占しているとは言わない。私たちは彼らの安全を保障することはできない。今日のビルマの文脈においては、非暴力がもっともよい方法だと思うが、だからといって〈正義の戦い〉に従事している人々を非難する気はまったくない」。

  国内の少数民族や、弾圧を逃れタイに在住して活発な反軍政・民主化闘争を繰り広げている人々は、基本的にアウンサンスーチーを支持し非暴力を重視しているが、彼女の柔軟な姿勢を正当化の根拠に、武装手段の行使や、ビルマ国軍による攻撃に対する武装自衛を肯定する傾向を持っている。

  アウンサンスーチーがこのような柔軟な姿勢を持った背景には、軍人として活躍した父親が、日本の占領終結後は軍籍を離れ政治的手段によって英国と独立交渉をしていたことや、ネルソン・マンデラが、冷戦激化の時代には効果的方法として武装闘争を選ばざるを得なかったが、最終的には非暴力に戻ったことから学んだものが大きかったと言われている。彼女は「もし選択の余地が存在し、どちらも同程度の成功の可能性があると考えられる場合は、明らかに非暴力の手段を選ぶべきだと思う。それは傷つく人々がより少なくなることを意味するからだ」とも述べていた。このようにアウンサンスーチーの非暴力主義は、目的と手段の一致を原則としながらも、置かれた歴史的・政治的状況を考慮し選択する政治的戦術としての性格も強く持っていた。だからこそ武装手段をとるタイ在住の活動家や少数民族からも支持され、大きな影響力を保ち続けることが可能になっているのだと思われる。

  このようにミャンマーでの非暴力闘争は、非暴力について揺るぎない信念を持つリーダーが存在し、しかもそのリーダーが状況によっては武力行使を容認する柔軟な姿勢を併せ持つことによって、影響力を保ち続けているということが出来るのである。

  なお『朝日新聞』4月17日付朝刊によると、ミャンマーでは、4月16日、アウンサンスーチー率いるNLDの支持派が、アウンサンスーチーを国家顧問、ウィンミン(2028年3月から今年の軍によるクーデターまで大統領であった)を大統領に据え、複数の少数民族を閣僚とした「統一政府」の樹立を宣言した。同政府は、国軍による統治を拒否し、今後、国際社会からの支持と承認を訴えていくという。ミャンマーではかつて1995年の総選挙で当選したNLD議員の一部によって同年12月18日、米国メリーランド州ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)という亡命政府(2012年9月に本国での改革運動に合流するため解散)が樹立されていた。その時の経験も活かされていくに違いない。

 クラサタは、今回成立した統一政府が一刻も早く国際的承認を得ることができるよう心から願っている。

 

参照文献

根本敬ビルマ民主化闘争における暴力と非暴力:アウンサンスーチーの非暴力主義と在タイ活動家たちの 理解」『年報政治学』(Ⅱ政治における暴力)、2009。 根本敬・田辺俊夫『アウンサンスーチー:変化するビルマの現状と課題』角川書店、2012。 根本敬アウンサンスーチーの非暴力主義:ガンディーの精神を二一世紀に引き継ぐ」『キリスト教文化研究所紀要』2015。 根本敬アウンサンスーチービルマ民主化と国民和解への道』岩波現代全書、2015。 田崎國彦「アウンサンスーチーが用いたパーリ仏典:仏教の社会化と民主主義の諸原理」『印度学仏教学研究』63-2,2015。