川端康雄『ジョージ・オーウェル:「人間らしさ」への讃歌』岩波新書、2020年を読んで : スローズナヤ・クラサタだより(2)
川端康雄『ジョージ・オーウェル:「人間らしさ」への讃歌』岩波新書、2020年を読んで
ジョージ・オーウェルといえば、誰しも『1984年』を思い浮かべ、ディストピア的世界を連想する。しかし本書は、そのような狭い見方をこえ生身のオーウェルに迫ろうとしている。著者の川端は、オーウェルには怒りだけでなく独特の明るさもみられたとし、それはオーウェルが普通の人びとの持つ「ディーセンシー」(人間らしさ、まともさ)を信頼していたからだと説いている。
オーウェル思想の核心を「ディーセンシー」に求める観点は、川端独自のものではないが、本書はディーセンシーを軸にオーウェルの多面的な生涯をバランスよくゆったりと描いていて読みやすい。それにしても「1984年」からもう37年もの時が経ったことに改めて驚かされる。オーウェルが、『1984年』刊行7か月後(1950年)に46歳という若さで亡くなったことや、『動物農場』(1945年出版)で成功するまでは売れない作家だったということにも注意を喚起させられた。
オーウェルの本名は、エリック・アーサー・ブレア。父親が植民地の役人をしていたため、1903年にインドで生まれている。英国に帰国後、イートン校に学んだが成績が悪かったため大学には進学せず、ビルマにわたってインド帝国警察官を5年間務めた。ビルマ語も話せたという。現地人を見下す英国人に居心地の悪さを覚え、植民地主義に批判的な目を向けるようになっていった。
インド帝国警察官を辞して帰国した後は、最底辺労働者についてルポルタージュを書くため、厳しい労働環境に身を置きどん底生活を味わっている。「下層階級は臭い」と彼らを遠ざけるよう育てられた自己の意識を変革するねらいもあったのであろう。ついでスペイン内戦には記者として赴くが、革命に心動かされ人民戦線軍に参加、瀕死の重傷を負った。スペインでの日々は、スターリン体制下の共産党がファシズムと同質の全体主義的傾向を持ちえることを彼に教えることとなった。
さらにオーウェルは、階級を攻撃するブルジョア社会主義者の多くがプロレタリアのテーブルマナーを身につけていないことにも気づかされていく。そして高邁なドン・キホーテ的精神よりもむしろ、人間のサンチョ・パンサ的な側面に積極的意義を見出し、たとえ汚らしく愚かで低級にみえたとしても、その根源には自由の感覚があり、それが人々を全体主義イデオロギーから遠ざけていくのではないかと思うにいたる。コモン・ピープルの生活文化にディーセンシー(まともさ)をみとめ、そこに期待していくのである。パトリオティズム(郷土愛)を権力欲と結びついた攻撃的ナショナリズムから明確に区別し、パトリオティズムに根づく民衆文化に強い関心をいだき続けたのもこのことと関係がある。文化をエリートの専有物とせず万人のものとして政治・社会と関連づけて論じる彼の民衆文化論は、今日いうところのカルチュラル・スタディーズを先取りしたものとみなすこともできる。なおパトリオティズムを郷土愛に近いものだと述べたのは鶴見俊輔だったが、著者は、鶴見とオーウェルの接点や、二人の仕事の類似性についても指摘するのを忘れてはいない。
本書のなかで、私(クラサタ)がさらに注目したのは、オーウェルが《もうひとつ書く本があるかぎり人は死なない、私にはそれがある》と述べていたことである。実際には執筆できずに死去したのだが、物書きがそういう心境になるのはわかる気がする。さらに政治的目的が欠けているとき、文章が生気のない、美文調になりがちだとしていた点についてもなるほどと考えさせられた。ガンディー評も面白く読んだ。核戦争の脅威が迫りくる環境のなかで、ガンディーの大衆的非暴力抵抗運動(サティアグラハ)を積極的に評価していたが、「来世的、反人間主義的な傾向」を持つ人間としてのガンディーには「嫌悪感」を持っていたという。サティアグラハに共鳴して、ガンディーを嫌う人はめったにいないと思うが、この人間観はいかにもオーウェルらしい。